54年と75年

 1954年と1975年というと何を思い浮かべるでしょうか?ディエン・ビエン・フー攻略とサイゴン陥落?それもまた事実ですが、ここではベトナム社会を和解から遠ざけてしまった農地改革と思想改造という点から語りたいと思います。が、75年についてはこれまで多くの記事が書かれていますので、むしろタブー扱いとなっている54年に重点を置いたものにしようと思います。重いテーマですので、ちょっとずつ少し長期にわたって更新していくことにしましょう。

 1954、55年を中心として行われたいわゆる『農地改革』については、タブー視されているためか言及している書物はあまり多くありません。ここ日本でもベトナム研究家の多くが、研究を続けるためにはどうしてもベトナム政府に目をつけられることが好ましくないためか(これは私の想像)、あるいは心情的に取り上げたくないためか、あまり積極的に取り上げているようには思えません。
 地主や富農から土地を徴用し貧農や小作に土地を再分配するというのは、社会の近代化にはつきものの改革で日本でも第二次大戦後に実施され、農業生産力を向上させるのに役立ったと考えられています。ベトナムでも富の再分配という観点から始められたはずなのですが、過激化して人民裁判のようなものへ突き進んだり、再分配の先に農業の集団化が考えられていたために大混乱し、罪のない人々が処刑されたり、政府に対する反乱を引き起こしたりしました。農地改革の誤りについては、公式にホー・チ・ミン主席が行き過ぎを認めて謝罪し、チュオン・チンが その責を負って更迭されることによって幕が引かれましたが、その後のベトナム社会に暗い影を落とす事件となってしまいました。
 農地改革を巡る雰囲気については、ズォン・ トゥー・フォンの『虚構の楽園』を読むと感じが分かります。
 一方、最近読んだベトナム人民軍についての本では、土地改革について解放闘争への人々の参加を促すために必要だったという視点で取り上げており、その見方は新鮮でした。解放闘争や独立戦争といった身を挺した活動については、愛国心や正義感など個人の心情に訴えるだけで本当に人を集めることができたのか、その点についてこれまでよく分かりませんでした。確かに、特に青年は理想に燃えやすく、そうした心に訴えるのはある程度成功すると思いますが、それぞれが自分の生活を持っている訳で、自分や家族に対する責任というのも非常に大きいはずです。そこへ、解放闘争へ参加すれば農地をもらえるという話しが加われば、そうした責任をも満足できるため、確かに効果があるだろうなと納得したのでした。当初から、問題が顕在化していた土地改革が2年間続いたのにはこうした事情も影響したのでしょう。

 さて、では実際に54年にどのようなことが起こって、そこに暮らす人々にはどのような影響があったのでしょうか?聞き取りを行ったある家族をモデルにその実態を見ていきます。
 ガーさんは看護婦を引退して孫に囲まれる悠々自適の生活をしているハノイの女性ですが、農地改革が起きた頃は小学生の高学年の頃でした。実家は、自分の土地を持つ富農あるいは自作農だったようですが、農地改革の指令が降りてから運命が急転しました。ガーさんは末っ子で何人もの兄や姉がいたのですが、両親がとらえられ人民裁判の中で糾弾される過程で、それらの兄姉は身の危険を感じてハノイを逃げ出し、まだ小さかったガーさんのみが地元に取り残されました。残されたガーさんはその対象に親を含む『ブルジョアジー』を糾弾するデモへの参加を余儀なくされ、人民に取り囲まれたご両親を含む一団の周りをシュプレヒコールをあげて行進させられたとのことです。生き残るために自分の親を糾弾したという事実はガーさんの心に暗い影を残しています。そして、失意のうちに亡くなった両親の庇護を受けられなくなったガーさんはそれ以後苦難の人生を歩みました。
 ガーさんは5人兄弟でしたが、年長の兄達は身の危険を感じ地方に逃げ出し、兄弟散り散りになったそうです。そのため、お互いに助け合うということが難しくなり、どうにかそれぞれが独力で生きていかざるを得なくなったのです。地方に逃げた兄達は偽名を使い、それぞれ地域にとけ込んで生きていきました。兄の一人は出身と名を隠したまま、ハノイ北部に設定されていた旧解放地域で頭角を現し、選抜されてソ連への留学もし、後に公安のかなりの地位にまで昇進しました。その子供達も公安に職を得る、公安一家となっているのには、弾圧された富農出身という背景を考えると少し皮肉を感じます。
 ガーさんは、結婚している姉の家に転がり込んだのですが、時代環境もあり、食事も含みあまり恵まれた生活を送ることは出来ませんでした。高等教育の機会が得られないまま成長していくうちに人材として優秀と見られたため、看護婦の訓練を受けることになりました。こうして、巡ってきた機会を必死に掴み、ようやく生活をたてることができるようになったのでした。    

以下続く