ハンガリー日記


出発
'93.4.26
 前日の宮本氏の結婚式で飲み過ぎて体調が悪いまま成田へ向かう。今回の旅行では悪名高いアエロフロートを使うので、どうなることか興味津々だ。成田は第2ターミナルが完成して、ずいぶんと雰囲気が変わっている。
 アエロフロートの窓口に行くと既に禁煙席はないとのこと、どうもさい先が悪い。幾らかドルに両替をして、後はいつものようにターミナルを歩き回る。きれいだけどあまりぱっとしない感じがする。
 時間が迫り、出発ロビーへと移動。横に広いのでかなり歩く。ロビーにはロシア人らしき姿が多い。搭乗が始まり、飛行機へ。機体にムソルグスキーと書いてあるエアバスA320で、イリューシンなどのロシア製でないのに安心。席に着いてみると、横はアジア系らしいロシア人で、後で聞くとカザフ人であった。何か背の高いロシア人が多いと思っているとロシアのバレーチーム一行だそうで、ウォトカを勧められて困った。

ロシアの大地へ
 雲が多く、日本海をいつ越えたか分からないうちにシベリアの大地が見えてきた。シベリアはまだ完全な冬景色。やがて見飽きてきた。食事は思ったより全然ましで、普通の航空会社と変わらない。うとうとしながら時間が過ぎていく。
 ようやくモスクワ上空だ。着陸の衝撃がほとんど無くロシア人の腕の良さに感心した。シェレメチェボ空港はだだっぴろく、空港の係官は機上とはえらく違って横柄かつ、非能率だ。チケットを取られて、いちばん奥のゲートに行けと言われ、内心不安であったが従うことにする。ベンチに座っていると次々と同じように不安を感じながらも人がやってくる。日本人がさすがに多い。みんなであれこれ言いながら待っていると係員がやって来て各ホテルごとに引率する。僕の組は、女性二人、男性二人で農場の中にあるようなアパートメント形式のホテルへと連れて行かれた。バスからみるモスクワの街は、まだ寒いこともありずいぶん貧しげに見えた。
 ホテルで出された食事はなるほどこれがロシアのまずい食事かと思わせる最低のものであった。同行の3人はさすがに食べれないと言って一口だけ口にしてやめたが、僕は腹が減ってはと思い、我慢して食べた。
 食後、宿泊棟に典型的と思われるロシア娘が案内してくれたが、この子は英語が全く分からないようであった。同行の男と同じ部屋に案内されたのでクレームをつけたら、全く分からない風をして、連絡をしに行こうとしない。直接交渉しに行くという身ぶりをするとようやく行ったが、帰ってきてやはりこの部屋だと示し、部屋を開けると中は二部屋に分かれているのであった。シャワーを浴び、薄っぺらな布団にくるまって寝ることにした。

'93.4.27
 朝起きると既に同行の3人は準備をしており迎えのバスを待とうと言っている。案内のお姉さんの言うことはよく分からないが、昨日到着した管理棟で待てば良いようだ。しかし、管理棟に行ってみると鍵がかかって中に入れない。外でしばらく待ってみるがバスがくる気配はない。おばさん達はせっかちに騒ぐので、宿泊棟でもう一度聞いてみることにする。しかし、係員はじっと待ってろと身ぶりで示すだけ。しかたないので管理棟に戻り、鍵もようやく開けられたのでそこのロビーで待つことにする。しかし、なかなか来ない。4人の中で僕の出発がもっとも早く、出発時間まで2時間を切ってしまった。食堂のおばさんに聞くが相手にもしてくれない。どうしようかと本当に心配になったそのときようやくバスが到着した。
 シェレメチェボ空港へ向かうバスの中から見たモスクワは朝の出勤風景であったが、本当に貧相な感じがした。春がまだ来ていないのだからしかたないのかも知れない。
 空港に着いてみんなと分かれ、待合いロビーでアナウンスを待つ。今回はいよいよロシア製のツポレフだ。エンジンが尾翼の所へ4つも集まっている。席に着いたところで、席を代わってくれと言うおじさんがいて、快く代わってあげるとビジネスクラスだが、あまりビジネスといっても変わったところはなかった。

到着
 ブダペストまでは約3時間。飛行機を降りると以外に日本人が多いのでびっくりした。どうも東欧をまわるツアーらしいが、若い女の子がツアコンをやっていて、わがままなおじさんに苦しめられてて気の毒であった。入国審査の窓口が少なく、かなり待たされた後入国。両替をした後、しばらくどうしようか悩んだ。
 最初にぼんやり考えていたようにオーストリア国境まで行ってから戻ることに決め、ツーリストインフォーメーションでショプロンへの行き方をたずねた。ケレティ駅から汽車が出るようなので、駅までシャトルサービスで行くことにする。2等席を買って、時間があるので駅の周辺をぶらぶらして時間をつぶした。
 汽車の座席は3人がけの向かい合わせになっていて、同じボックスには子連れの夫婦とおばさんがいたが、まだ会話できるような状態でなく、そのままただ外を見ていた。
 ショプロンまでは、5時間ほど走ったのだろうか。途中ドナウ側のほとりを走ったり、延々と平原を走り、山らしい山は見なかった。 

アンジーママとの出会い
ショプロンは比較的小さな街だ。降りて、インフォーメーションで地図をもらおうとすると置いてないと言われ、がっかりとして駅の外に出た。歩き方の地図では街の中心部までそんなにないようなので歩いて行くことにする。
 円形になった街を目前とした信号で待っていると後ろから袖を引く人がいる。振り向くと一人のおばあさんがにこにことして立っている。英語で話しかけても理解しないようなので途方に暮れているとドイツ語はできるかとか日本人かとか泊まる場所はあるのかなどと聞いているらしい。会話にならない会話を続けているとどうもうちにきて泊まれと言っているようだ。どうもゲストハウスをやっていてその客引きらしい。まあいいやとついていくとすぐ近くのアパートメントの二階がそのおばあさんの家であった。
 紅茶を入れてくれて英語=ハンガリー語の辞書を取りだし、先ほどの続きが始まった。彼女はアンジー=セケールと言い、アンジーママと呼んでくれと僕に身ぶりで示した。いろいろ泊まった人の写真や手紙を見せてくれる。日本人に好意を持っているらしく、またどうも善い人らしいので何となく泊まることになった。
 まだショプロンを全く見ていないので、外を散歩することにした。もう5時を過ぎているが、まだ暗くなる気配はない。町並みは中世の面影を残していて、いかにもヨーロッパの街だ。街の中心部には円形広場があって子供達がたむろしている。中心には三位一体の像という、街のシンボルが立っており、広場の周辺はカフェが取り囲んでいる。ここで、スケッチをしながらビールをちびちびとやっていた。8時頃になるとさすがに暗くなってきたのでアンジーママの家へ戻ることにした。
アンジーママは部屋に引きこもっているらしく、姿は見えない。僕も部屋に行くことにして、しばらく日記を書いたり、ハンガリー語のテープを聞いたりした後、疲れが出て眠りについた。

宮殿巡り
'93.4.28
 旅行に出ると早く目が覚める。適当な時間になるまでテープを聞いたりして待機する。居間に出るとアンジーママが出てきた。フェルトゥードのエステルハージ宮殿に行きたいことを伝えるとバス停まで案内してくれると言う。会話がスムーズでないので良く分からないことが多く、後々問題となるのだった。
 アパートから程近いバス停でバスを待つ。たくさんバスが通り過ぎるが、どれがどこ行きやらさっぱり分からない。アンジーママがこれだと言うのに乗り込み一路エステルハージ宮殿へ。
 エステルハージ宮殿は戦争や略奪のため外装がずいぶんと傷んでいた。しかし中のつくりなどは往年の栄華を偲ばせる。内部を傷めないためにオーバーシューズをはき、案内がついて各部屋をまわる。庭園もフランス風で趣が異なる。
 フェルトゥードには宮殿しか見るものはないのでどうしようか迷うが、すぐにショプロンに戻ることにする。ショプロンに戻るとついでにセーチェニの館を見てこようかと気が代わった。そこでバスターミナルまで乗って降りたものの、どのバスに乗れば良いか正確には分からない。しばらく時刻表を眺め、歩き方を見、意を決して学生らしき女の子達に英語で話しかけるが「きゃー」と笑いだして逃げてしまった。やはり、ハンガリーでは英語は難しいようだ。どうしようか迷っていたが、しばらくしてまた別の女の子に尋ねると、つっかえつっかえ答えてくれ、結局身ぶりで乗るバスを教えるから一緒に待ってろということになった。そのうちバスがきて、お礼を言って乗り込む。セーチェニの館はかなり近いところにあるようで30分程乗ったら運転手が降りろと言う。そこからは1kmほど歩くようだ。
 セーチェニの館はエステルハージ宮殿と比較するとこじんまりしているが、なかなか落ち着いた建物だった。まず併設のレストランで昼食をとることにする。メニューが英語版もあるので助かった。まだレートの感覚が身についてないのでいちばん安いのにしようとすると給仕がそれは良くないと言うのでお勧めを聞くとなにかカツレツのようなものを勧めてくれたのでそれにする。味はよいのだが、量が多いので平らげるのに苦労した。
 セーチェニの館はセーチェニ=イシュトバーンを中心に据えた博物館になっていて、なかなか興味深そうなのだがいかんせん、説明がマジャール語とドイツ語ではどうしようもない。適当に見てまわり、庭に出てスケッチをして帰ることにした。

意思の疎通の難しさ
 帰るとアンジーママが心配そうな顔で昼帰ってこないので心配したと言う。どうも昼食を一緒に食べるということになっていたらしい。そう言えば、ハンガリーでは昼食がメインというようなことを書いていた気もする。電話で話したアンジーママの子供も会えるのを楽しみにしていると言っていたような...。どうも僕は約束をすっぽかしたらしい。
 しばらくしてアンジーママの弟さんが現れ、会話をした。彼はハンガリー動乱の時に大学生で、亡命して合衆国に行きエンジニアをしているとのことであった。旧共産党政権からの権力の移行を「kicked out」と強い表現をしていたのが印象に残った。どうも僕の持っている印象とその渦中にいた人間では差が大きい。またブダペストの駅で見たもの売りの人の話をすると年寄りは昔の安定した生活を懐かしんでいるというような話をしていた。そのうちアンジーママの息子さんやその妻などがきてにぎやかになり、彼らはどこかへ出かけていったのだった。どうも成りゆきが良く分からず、居心地が悪かったが、ゲストハウスは部屋を貸しているだけで、そこらへんには立ち入らない方がよいようだ。
 アンジーママが帰ってくるまで寝ない方がよいかと思いずーっと起きて待っていたが、11時過ぎても帰ってこない。あきらめて寝ることにする。

ショプロンのお散歩
'93.4.29
 目が覚めて様子を窺うと隣の部屋から寝息が聞こえる。尋常な時間になるまで待って、起き出すとやがてアンジーママが起き出してきた。昨夜心配していたと言うのを伝えようとするが、うまく伝わらない。なにかいい方に誤解されたようで、信心深いと思われたらしい。そういう話をしなかったのでキリスト教徒だと思われているのかも知れない。
 電話をかけたいというのと手紙を出したいというのを伝えると、買い物があるから一緒に行こうということになった。
 郵便局に行きハガキを出し、電話の掛け方を聞いて帰りのリコンファームを行った。その後、アンジーママのお供でスーパーに入り、買い物につきあう。ハンガリーの日常をかいま見る機会だ。品物は豊富で、価格も日本に較べると驚くほど安い。でも、ハンガリーはまだ経済的苦境にあるのだ。途中、アンジーママがあれは昔の共産党の建物だと苦々しげに指さした。東欧の中でもっとも民主化され、西からの評価も高かったハンガリーでさえこうなのだ。外から見るのと内で感じるのとの違いはおおきい。
 一度アパートに戻った後、ショプロンの町を歩いてみたかったので、絵はがきを買いたいという理由をつけてアンジーママを外へ連れ出した。絵はがきはすぐに見つかったが、そのまま身ぶりで少し街を歩こうと誘った。しばらくぶらぶらして、鉱業博物館の所で中に入ってみようということになった。
 鉱業博物館はエステルハージ家のショプロンの館を改造したもので、鉱業関係ではなかなか内容が充実している。中にはいると係官が近づいてきて英語で説明してくれるという。親切に説明してくれ、楽しかったが汽車の時間が近づいていて切り上げなくてはならなかったのが残念。最後に係官に名刺を渡して、鉱業に関係する会社につとめていることを告げ、お礼を言って出た。
 アパートに戻ると残り時間は少ない。しかし、最後にアンジーママは手料理を少しでも食べさせてくれようと簡単につくってくれた。茸と何かのトマトソース煮込みで独特だがおいしかった。別れを惜しんだが、出て行かなければならない。キスを交わし、出発。窓からアンジーママが見送ってくれる。手を振ってお別れ、胸がじんとした。

ケーセグへ
 駅に着き、ケーセグまでの切符を買う。ソンバトヘイ行きの汽車はすぐに出発だ。2両しかないくたびれた列車に乗り込む。ごとごとと揺られハンガリーの田舎を汽車は走る。平原を抜け遠くに山が見えてきた。オーストリア国境のサブアルプスだ。ソンバトヘイでケーセグ行きに乗り換え、30分ほどまた揺られる。ケーセグは山の麓の小さな街だ。駅から街の中心まで歩くことにする。
 中央教会の幾何学模様が見えてきたところで雨が降ってきた。近くの民家の軒先で雨宿りをする。しばらくすると雨が上がったので、また中央教会を目指して歩く。広場に着き、今日の宿を考えるが、あまり選択の余地はなく、中央教会前のホテルシュトルツに荷を置くことにする。
 ホテルを出て、山の方に向かう。街の背後にある丘はゴルゴダの丘を模しているらしい。途中のスーパーでレモンジュースを買って、ラッパ飲みしながらカルヴァリの丘へ。丘の麓から祠のようなものが5mおきに建っている。中にはイエスがローマ総督につかまり、はりつけされて復活するまでがレリーフとなって描かれている。レリーフを見ながらゆっくりと登っていると、後ろから銃を抱えた兵士が登ってくる。少し怖かったので、レモンジュースを飲み、休憩するふりをしてやり過ごした。あとから考えるとオーストリアとの国境なので、国境の詰め所にでも向かっていたのだろう。
 丘の上の修道院跡からはケーセグの町並みが良く見渡せる。こじんまりとした小さな街だ。しばらく眺めて下へ降り、ユリシチ城へ行く。ユリシチ城は博物館になっており、展示は充実しているがすべてハンガリー語で書かれていて意味が不明であった。
 城を出て、広場へと歩く。広場の中心には何かの像が建っていて、周りに教会や役場などが集まっている。広場の端に座りスケッチをしていると子供達がやってきてのぞいていく。一人、本当にかわいい子供がまとわりついて離れないので写真を撮ってあげた。しばらくすると、その子のおばあさんらしい人が呼び帰し、お別れとなった。
 広場にカフェがあり、そこでビールを飲むことにする。やがて日が暮れて行くが、緯度が高いこともあり、日本の感覚だと随分遅い。どうせやることもないので、一杯のビールで随分とねばった。
 暮れきるまで、まだ時間があったので中央教会のスケッチをする事にした。中央教会は幾何学模様が面白い。
 ケーセグは小さな街なので夜の楽しみはほとんどないようだ。その日の夕食をどこでとるか、街を歩きながら物色したが、あまり選択はなさそうで、とあるパブ兼レストランのような店にした。この店はあまり客は入っていなかったがなかなか良い店で、ボーイのお兄さんがとても親切に相談にのってくれた。まずは飲物。ここはやっぱりワイン。ショプロニルの赤をボトルで頼むと大丈夫かと繰り返し聞かれた。次は料理、お勧めを聞きながら卵料理、カツレツ、など三品頼むとやはり大丈夫かという顔をした。料理は確かに非常にボリュームが多い。付け合わせの野菜やポテトもたんまりと付いていて二品食べたところでだいぶ一杯になっていたが、ボーイさんに次作っても大丈夫かと聞かれたら、やはり食べる気になった。このボーイさんには随分と世話になったのでチップをはずんだら、最初は遠慮していた。
 おおいに飲み、食べて満足したのでホテルに帰り、シャワーを浴びてすぐに寝た。実際のところ、かなり酔っていたような気がする。

ブダペストへ
'93.4.30
 今日はいよいよブダペストへ戻る。朝食は併設のレストランで簡単にとった。時間があるので駅までゆっくりと歩いていく。ソンバトヘイまで30分汽車に揺られて、ブダペスト行きへ乗り換え。ブダペストまでは4時間ほどだ。
 車窓からの景色は、ブダペスト、ショプロン間ほどではないものの、延々と平原が続く。あちこちの席に兵士が座っていたが、休暇でももらっているのだろうか。
 ブダペストへは、デリ駅(東駅)へとついた。今日の宿を確保しなければならない。一応、ブダペストでの連絡先をネムゼッティホテルにしておいたので、そこにしようと考えた。
 地下鉄で一日券を買い求め、ケレティ駅方面への電車にのる。ネムゼッティホテルで泊まれるか聞くとあいているということで三泊申し込む。内部は由緒ただしそうな豪勢なホテルであった。部屋もゆったりとして、居心地は良さそうである。

ブダペストのお土産
 ホテルを出て、まずお土産を買いにいくことにする。目的は、ハンガリー刺繍とヘレンドの陶器、ガラス製品である。最初は繁華街らしきところをただやみくもに歩き回ったが、正確な場所が分からないので手近にあった旅行代理店に聞いてみたらおおよその場所と行き方を教えてくれた。
 教えられていってみると、そこはブダペスト一の繁華街らしかった。さまざまな会社のオフィスやいろいろな専門店が立ち並び、人通りが多い。目指すフォークアートもヘレンドもそこにあった。まずフォークアートでハンガリー刺繍の製品を買おうと中に入るとかなりの混雑、日本人も数人いた。まず、テーブルクロスを見ようと店員に出してもらうと、身なりがあまり豊かそうでないと見られたか安い品の貧弱なものしか出さない。もっと他にはないのかと出される度に言っているとやっとまともなものが出てきた。何枚か出させて広げていると気に入ったものがあり、白地に赤の典型的なものを三枚ほど購入した。他にも2、3枚大きさの異なるものを購入し、店を出た。ハンガリーではアメックスがなぜか良く使えるのでありがたい。
 次はヘレンドの陶器だ。店のある場所に行き着くのや買い物に意外に手間取ったため、閉店が近くなっている。ヘレンドは、やはり高級なようで価格が非常に高い。あまり、予算がないので小さなものばかりを選んで購入する。ヘレンドのと言うか、これはヨーロッパの陶器の特徴なのだろうか、昆虫や植物の小さな柄をたくさん描いたものが多い。すっきりと清潔な感じがする。
 地下鉄に乗って帰ろうとするとガラス製品の店が目につき、思わず中に入る。様々な大きさのいろいろな製品があったが、ワイングラスを小さいのと中くらいの二組求めた。荷物がかさばるので一旦ホテルへ置きに帰ることにする。
 ホテルを出てまた王宮の丘の対岸へと出かけた。食事を適当なレストランで済ませたが、さすがにブダペストの物価は高い。大しておなか一杯になっていないのに、地方での2、3倍の価格である。

夜のブダペスト
 ドナウ河畔に出ると対岸の王宮の丘は見事にライトアップされている。しばしの感動。言葉も出ない。しばらくベンチに座って眺める。その後、近くのカフェに入り、ビールを頼んでちびちびやりながら眺め直した。ふと、王宮の丘に行ってみようと言う気になった。鎖橋に向かい歩き始め、立ち止まっては眺める。途中、通行人に王宮の丘を背後に写真を取ってもらう。鎖橋には、僕と同じように歩いて渡る人がたくさんいる。王宮の丘の下にたどり着き、ケーブルカーの切符を買って乗り込む。人はほとんど乗っておらず貸し切り状態であった。
 驚いたことに9時過ぎなのに王宮の丘には観光客がたくさんいる。治安がいいのだろう。ペスト側の光景は、王宮の丘ほどではないがきれいであった。しばらくぶらぶらした後バスでペスト側へ戻り、地下鉄でホテルへと帰った。ホテルの前まで戻ったものの、何となく惜しくなってまたアストリアの方へぶらぶら歩き風情を楽しんだ。夜も更けているのに歩いている人は結構多い。そうした人たちはショーウインドーを熱心に眺めていることが多い。ウィンドーショッピングで我慢しているのだろうか。東欧で先頭を走っていても、経済の立ち直りがこの国でも遅いのだろうなと思いながら、途中バスに乗ったり、歩いたりしてホテルに帰った。シャワーを浴び一日が終わった。

歴史を感じる
'93.5.1
 朝食を一階のレストランで取る。バイキング形式で割合豪華だ。
 今日はまず英雄広場に行こうと考えた。英雄広場は王宮の丘と並ぶ観光名所だ。地下鉄を乗り換えて英雄広場へ行くと英雄広場の中心には記念碑のようなものがあって衛兵が護衛に立っている。衛兵交代式があるかなと思って待っているとやはり一時間おきに交代があるのだった。周りでどこの国の若者か分からないが衛兵をからかっていた。
 英雄広場から帰ろうかと思っているとアンドラーシュ通りをパレードがやってくる。そこで気付いたが、その日はメーデーであった。いろいろな団体が横断幕を広げて行進してくる。しばらくその行進を眺めてぼーっとしていた。行進は、英雄広場の横を通り、背後の公園で終わりのようだ。何となく、行進についていくとそこの公園ではお祭り騒ぎで、屋台やらいろいろと出店が出ていた。しばらく店を冷やかしながらぶらぶらと歩き、また英雄広場へと戻った。
 英雄広場のとなりには国立美術館があるので入ってみることにした。この美術館は絵画を中心としたギャラリーになっている。順に眺めていくと15、6世紀の名画が多く、ハンガリーの過去の栄光を物語っているようだ。だいたい世界的に評価されるのはルネッサンス期のイタリア絵画が最高らしいのだが、日本は世界に乗り出すのが遅かったため、その時代の絵については国内で見ることはまずできないのだと思う。ここでは、ラファエロの絵がなかなか良かった。地下の売店で絵はがきなどを買い求めて美術館を出た。
 アンドラーシュ通りを歩きながら昼飯をどこで食べようか考えていると、オペラの近くにカフェがあったので入ってみた。しかし、そこは料理をおいていないようでビールだけ飲んで出た。途中でアイスクリームなどで腹をふさぎながら歩き、国会議事堂のそばまで戻る。
 王宮の丘を昼に見ておこうと思いバスに乗ってでかけた。バスは王宮の丘の坂道をすごい勢いで昇っていく。王宮の丘は観光客でにぎわっている。王宮の中は美術館になっているのだが、国立博物館で見疲れてしまったのでパスした。しばらくぶらぶらして過ごす。

オペラ!!
 また、ペスト側へ戻りコンサートか何かの情報を得ようとぶらぶらするが、プレイガイドはお休みのようだ。前に張っているカレンダーでは今夜オペラがあるようなのでオペラハウスまでチケットを買いにいくことにする。
 オペラハウスの脇がチケットセンターになっている。そこに入って今日のプログラムを見たが何をやるのかさっぱり分からない。モーツァルトなのは確かなのだが、聞いたことがないのだ。どうしようか迷っていると、我が同胞がやってきて話しかけてきた。「今日のオペラ聞くんですか?」しばらく話して、やはり聞いてみることにし、チケットを買いに窓口へ。どの席にするかと聞かれ、思わず「Nem draga」。窓口のおばさんが、苦笑しながらチケットを渡してくれた。価格は180フォリント、約300円ぐらいだろう。日本で聞けば最低10000円はするんだろうなと思いながらそこを出た。
 開演までは3時間もない。路面電車に乗って急いでホテルに戻り、見苦しくない格好に着替え(と言ってもたいした違いはなかったが)、オペラの近くのレストランに入って食事にした。メニューが相変わらず分からないので、ウェイターに相談すると親切に相談に乗ってくれ、何か良く分からないけれど代表的なハンガリー料理らしきものをおいしく食べた。本当はグヤーシュを食べたかったのだが、そこにはおいておらず、ウェイターが似たような煮込み料理を勧めてくれたのであった。たらふく食べて(ハンガリー料理はやはり量が多い)満腹状態でそこを出、一路オペラハウスへと向かう。
 オペラハウスに入ると席がどこにあるのか分からない。係りの人に聞くとその席の入り口は横手にあると言われそちらへ回るとそこにあった。やはり、安い席だけあって扱いが違うのだろう。その席は本当に天井のすぐ下にあって、舞台は遥か下の方に見える。眼前には豪華なシャンデリアが有る。開演を待っているととなりの人がやってきたがどうやら新婚旅行の日本人夫婦らしい。話しかけてもじゃまをするようで悪いのでそのままほっておいた。
 やがて開演となった。しかし、筋は知らないし、せりふはドイツ語だしで単に人間の声を一つの楽器として聞いている有り様であったが、じっと人の動きを見ているとそれなりに粗筋は分かってくる。どうも、女に陥れられてある若者が罪を着せられようとしているらしい。その若者役になっている女性が素晴らしいアルトで思わずほれぼれとしてしまった。まわりもそう感じたらしく、第一幕が終わってアンコールに答えた中ではいちばん盛大な拍手を浴びていた。しばらく休憩が入り、ロビーでうろうろしたのち席に戻る。
 第二幕が始まってしばらくするとさすがに細かい筋は分からないので眠くなり、少し眠ってしまった。せっかく本場のオペラを見ていたと言うのにもったいない。二幕もそれなりに盛り上がり、アンコールでは一幕でも喝采を浴びていたアルトと皇帝役のテノールがいちばん拍手喝采を浴びていた。300円でこんな良いものが見れていいのかなと言うのがそのときの感想であった。

ブダペストの夜は...
 余韻が残っているのでそのままホテルに帰るのも惜しく、地下鉄でドナウの岸辺の例の王宮の丘の正面へと向かう。そこでまたビールを一杯飲みながらぼーっと夜景を眺めていた。夜も更けて11時になろうとするのに人通りはますます多い。経済がいまいちとはいえ治安もそんなに悪くないようだ。
 そろそろ帰ろうかと思って、プレイガイドのショーウインドーを眺めながら歩いていると後ろから呼び止める声がする。怪訝に思って振り向くとかなり美人の女の子が立っている。「Excuse me Mr.」「?」「I have a buisiness with you.」「??」「SEX」「???」「SUPER SEX!!」「?!!」振り切って逃げたものの、SUPER SEXとはどんなものだろうと思わずにはいられなかった。地下鉄に飛び乗り、ホテルに戻ると泥のように眠ったのであった。

ひたすら観光
'93.5.2
 今日はゲッレールトの丘へと行ってみようと思い立った。地下鉄、市電、バスを乗り継いで向かう。ゲッレールトの丘は住宅街の中にあった。バスはくねくねと丘を登っていく。登り切った上に砦があるのだが、ここにはいるのにはお金を取られる。入ったところで、ソ連がたてた大きな像があるだけで、後は市街が見渡せるのが取り柄だろうか。風景は王宮の丘から見るのと変わらないが、その王宮の丘が見えるところだけはまあ許せるだろう。しばらく景色を眺めながらぼーっとした後、歩いてドナウ側へと降りた。
 途中ゲッレールト様の像がそびえていた。この人はキリスト教の不況に尽力したらしいが、結局異教徒にドナウ川へと投げ込まれたらしい。ゲッレールトのしたあたりでバスを待ち、ペスト側へと戻っていった。
 ドナウ側のいつものあたりでベンチに腰を下ろし、王宮の丘のスケッチを始める。周囲では、大道芸人がティターを弾いていたり、絵を売っている若い人がいたりで、ぼくもそうした一人に間違われたのか、頻繁にのぞき込まれるのだが、気にせずに絵を書き続けた。スケッチブックが大きくないのであまり視野を広くとれないのが残念だったが、時間をかけたので割合細かくかけていた。
 今日は、博物館めぐりだ。まずは、国立博物館へ。ここは、ハンガリーの歴史を中心に古代から現代まで時系列で展示されている。ここで感じたのは、トルコに対する敵対心であった。やはり、17世紀頃までやられっぱなしだったので、かなり反感があるようだった。その分我々の敵トルコ人とはどういう民族なのかという視点で風俗まで詳しく展示されていた。しかし、ハンガリーの公共建築はどれも立派だ。重厚感といい、装飾といい、非常に貴族趣味である。さすが、ハンガリー王国の威光を感じさせる。
 全部見て歩くと大変疲れた。そろそろ、食事をしないとおなかも空いてきたしと思ったものの、適当な食堂が見つからず、繁華街に戻ってからでいいやと思い、次は民族博物館に行くことにする。
 民族博物館は、国会議事堂の向かいにあり、最初入り口がわからなかったほど大きな建物だが、ここも内部は荘重な装飾である。民族博物館は、民族学的な調査の結果が展示されている。各地、各時代の服装、習俗、祭祀等々。見学者は非常に少なく、一人熱心にメモを取っている学生がいたが、あともう一人ぐらいしか中では会わなかった。
 ここの1階に喫茶店のようなものが併設されていたのでそこでコーヒーと巻きパンのようなものを頼んで食べた。

リスト音楽院
 昨夜プレイガイド前で今夜のコンサートスケジュールを見るとハンガリー交響楽団の演奏がリスト音楽院であるようになっていたのでチケットを買い求めようとリスト音楽院へと向かう。音楽院は1階がコンサートホールになっている。1階の事務所でチケットをどこで売っているか聞くと、良くわからなかったが上の階のような身ぶりをしたので、階段を上っていって見る。上の方はレッスンルームが並んでいるようでベンチに座っている学生たちから奇異な目で見られた。その中には日本からの留学生もいるような感じである。良くわからなかったので、そこら辺にいる掃除のおばさんに聞くと1階だというような身ぶりである。1階ホールでまた聞いてみると窓口はそこだと言われ、見てみると小さな窓口がある。そこで今夜のチケットはあるかと聞くと売り切れだと言われがっくりと気落ちする。ホールの方からオルガンの音が聞こえるので入ってみると、学生だろうか、練習をしているようだ。しばらく聞いていた。ホール内部はここもやはり重厚な感じであった。闇の中に一人、練習している学生の姿だけがスポットライトに照らされて明るい。それは不思議に幻想的な、心に残る風景であった。音楽院の掲示板には日本人留学生の名もいつか見受けられた。
 リスト音楽院をでてしばらく町を歩き回る。途中闇両替らしい男に中国語で声をかけられた。さすがに旧社会主義国だけあって、中国とのつながりも多いのだろう。ハンガリーは旧社会主義国と言っても、市場経済への移行は早かったし、闇両替を見たのはそれが最初で最後であった。
 今夜のコンサート、どうもあきらめがつかなくてリスト音楽院へ戻る。誰かチケットを余らしてないだろうか。しかし、やがて開演の時間となり夢と消えた。

最後の晩餐
 仕方がないので食事をすることにする。リスト音楽院の前にあるチェコ料理の店だ。これは調べると歩き方にも書いてあった。中に入ると落ち着いた照明で、いつものようにウェイターにアドバイスを求め料理を決めた。ワインも適当に選ぶ。脂っこいが結構いける料理であった。
 今日はハンガリー最後の夜、英雄広場と王宮の丘にまた行ってみることにする。英雄広場はライトアップされてとてもきれいである。地下鉄を乗り継ぎ、バスに乗って王宮の丘へ。相変わらず観光客が多い。ペスト側の景色を見るのもこれが最後。しばし、感慨に浸った。ペスト側に戻り、最後に王宮の丘をドナウ川越しに眺める。本当にきれいな景色だった。
 ホテルに戻り、帰りの準備をする。明日は朝の飛行機だ。

苦い思い
'93.5.3
 朝起きていつものように食事をする。中途半端な時間なのでどうしようかとも思ったが、直接空港へ行くことにする。荷物をまとめて、ロビーへと降りる。カウンターでチェックアウトをお願いし、計算されるのを待っているとき、外からインドかスリランカから来たと思える二人連れが近づいてきた。そのうち女性が話しかけてきたが、何語なのかさっぱりわからない。わからないと言うと、さっさと外にでていった。フロントに向かい直してなにかおかしいと思うと、足の間に置いておいた手荷物がなくなっている。あわてて外にでてみるがすでに姿は見えない。盗まれてしまった。
 フロントで盗まれたことを説明して、警察への連絡をお願いしたが調書をつくるのには警察署に行かなければならないと言われあきらめる。かわりにアメリカンエキスプレスに電話してもらい、盗難について説明するがそこの事務所ではどうにもできないと言うので東京の電話番号を教えてもらう。アメリカンエキスプレスの緊急連絡先も鞄に入っていたのだ。フロントのおじさんに東京に電話をかけてもらい、ようやく日本語で説明できたが、とりあえずできることはないらしいので、帰国してまた連絡することにした。がっくりと気落ちする。おじさんは責任を感じたのか、三泊した割にはとても安い値段を請求した。ぼくはなにも言わずサインした。とられたものを紙に書き、もし見つかったらと言いかけたら、一言「Hopeless」と言われてしまった。あの鞄には、金目のものはほとんど入っていなかったのだが、撮影済みのフィルムがすべて入っていたのだ。本当にがっくり来てしまった。
 しかたないのでタクシーを呼んでもらい、待っている間にフロントにいた若い男がいいわけを始める。『友達に話しかけられているのかと思った、アジアの人間は似ているので良くわからない。』、かっとなって、あれは南アジアの人間で肌が薄黒かったと言い返す。しかし、言ってどうなるわけでもない。

さよならブダペスト〜悔しさとともに
 タクシーが来た。タクシーの運転手に怒りをぶつける。最後の日に盗まれたなんてと空港に着くまで、相手がわかろうがわかるまいがお構いなしに話し続けた。フェリヘジ空港に着いてももうなにもする気にならないが、写真がなくなったのでとりあえず絵はがきを大量に買い込む。まず、アンジーママに写真を盗まれたので送ることはできないと書くことにする。アンジーママは英語ができないので案内所の女の子にハンガリー語に訳してもらい書き写す。
 やがて搭乗時間となった。アエロフロートはやはりおんぼろだ。席の番号がなくてぼくの席と思えるところに若い男が座っていて聞くと横柄にあっちだと言うので反対側に座ったが、うそをついているのは見え見えであった。後から来た女の子がぼくが席にいるので困っていたが、文句を言わず隣に座っていた。
 やがて、離陸しハンガリーの大地を離れた。空から見るハンガリーは赤茶けた色の大地が広がっていて、草原のイメージとは異なる。ただ、やたらだだっ広い。飛行機は揺れながらモスクワに向かう。モスクワに近づくにつれ、雪が残っていたり何となく寒い景色になってくる。着陸態勢にはいると隣の女の子はそわそわとして、気分が悪そう。着陸してすぐにトイレへとかけ込んでいった。

いつまでもついてない
 モスクワ、シェレメチェボ空港では乗り継ぎ待ちに4時間ほどある。しばらく、おみやげを買ったり、いろいろのぞいたりしていたが、あまり時間をつぶすところはない。本屋さんに寄ると、タチャーナ=ニコラーエワのCDが置いていたので、ついにバッハの平均率を買ってしまった。
 やがて搭乗時間となり、乗るとその機はパリから来ていたので中には日本人がたくさんいた。隣の席も日本人の女の子で友達を訪ねてスペインに行っていたという。やはり、女の子の方が大胆というか、思い切りがよいようだ。訪ねた先が男の友人というのだから大胆きわまると思うのだが、見た感じはごくふつうの女の子であった。成田に着くまでときどき話をして退屈を紛らわせた。
 成田に着いたのは翌朝だった。途中、日本海が雲の合間から見え、また上越の山が雪をかぶっているのもきれいであった。
 成田について、荷物を受け取るとやられていた。やはりモスクワは危ない。チャックが無理矢理引きあけられていて、中を探った跡がある。今回の旅行はたたられていた。