マレーシア日記


'91.4.28〜5.5

出発
'91.4.28
 前日まで何も用意せずにいたので、朝から準備におおわらわだ。思えば、湾岸戦争や4月の異動が気になって、佐藤氏に連絡をとったのが二週間前、実際にチケットがとれたのが三日前なのだからしかたない。第一、行く先をマレーシアにしたのだって、古藤がインドネシアに行きたいなどと言い出した挙げ句に行けそうにないということで、僕の頭にはしっかりインプットされたのが、どうせ行くなら英語が通じる方がいいやと思ってマレーシアに変更したのが始まりだった。
 心の準備ができないまま成田へ向かった。出発が若干遅れ、PM7:10頃離陸した。マレーシアまでは約7時間。隣に日本人が座っていたが、一言も話さなかった。夜のフライトもなかなか情緒がある。

到着
'91.4.29
 闇の中に街の明かりが輝き、道路を走る車のライトが過ぎてゆく。いよいよマレーシアだ。AM1:00頃、スバン国際空港に到着。空港ロビーに入ったとたん、スパイスのような一種独特な匂いがする。
 多少お金を両替し、荷物を受け取りにコンベアーに行くと、機内で横に座っていた男が別の女の子とカップルになっている。素早いものだと妙に関心。
 さて、空港から出た途端途方に暮れてしまった。この時刻に予約も無しでどうやってホテルを見つけたら良いのだろう。歩き方を取り出し、クアラルンプールのホテルのところを見てもいまいち不安だ。ぼーっとしていると横にいた日本人に話しかけられた。彼は以前マレーシアに仕事で住んでいて、これから国内線に乗り換えて、昔住んでいたところを訪ねるのだそうだ。いくつかのホテル名を挙げてくれ、タクシーの乗り方も教えてくれた。意を決してタクシー乗り場に近づき、ブキッビンタンまでのタクシーチケットを買った。歩き方に乗っているマレーシアホテルをアタックしてみよう。
 夜道をタクシーは飛ばす。どこに行っているか判らない僕は不安のまま、なるようになれとあきらめている。車窓から見えるクアラルンプールの街は、意外に発展したきれいな街のようだ。
 やがて、繁華街と思われるところでタクシーが止まった。ガラスの向こうは暗く、ビートを聞かせた音楽と女の子の嬌声らしきものが聞こえる。不安が急速に大きくなり、運転手がここだと言ってるのだが入る気がしない。中から人が出てきたので決心して入ることにする。
 フロントにいるのはマレー系二人。比較的リーズナブルな価格を請求された。部屋は特に上等とは言えないが、余り文句も言えまい。ただ、部屋まで案内しただけでチップを請求するのはいただけない。精神的な疲れからかすぐに眠りに落ちた。

市内観光
 AM8:00頃目を覚ます。予定を何も考えていず、博物館にでも行こうとフロントに降りると、華人のおじさんからシティツアーがよいと勧められ、申し込んでもらう。これは実際おもしろく、クアラルンプールの主な見所を回ってくれた。ここで、また飛行機の隣の席の男と一緒になったが、女の子といちゃいちゃしてて少し頭に来た。このツアーではクアラルンプールの名の基となった地に建つイスラム寺院や官庁街が良かった。国立博物館ではもう少し時間が欲しかった。
 ホテルに戻りシャワーを浴びてから、航空券のリコンファームの為にマレーシア航空の本社ビルへ向かう。不安をかき立てるような言葉があったような気がするが、リコンファームを終え、街を散歩する。熱帯の空気は熱く、湿っている。
 途中、ショッピングセンターに近いところで良く判らないおじさんに声をかけられ、今度妹が日本に行くので日本の話しをしてやってくれないかと言うのだが、何か怪しげな感じで断ると、クアラルンプール中央駅に向かう間、しばらく後をつけられたようだった。
 中央駅の中にあるホテルに泊まろうかと思ったのだが、そこは今やっていないとタクシーの運転手が言い、いいところを紹介するからとの甘言にのってMexico Hotelへ。それほどいいとこでも無く、運転手に手数料を請求されて割高になって損をした。
 またシャワーを浴びて(暑いので度々シャワーを浴びたくなる)、チャイナタウンへ出かけることにする。道路に出るとちょうどバスがくるところで、バス停の名を確かめるのを忘れ、後で苦い思いをする事になる。
 KLのショッピングセンターは日本と余り変わらない雰囲気で、中学生の女の子がきゃあきゃあ言いながら買い物をしていたりする。絵はがきを買い、しばらく涼んでいた。その後、明日のいくさきを決めるためプドラヤバスターミナルへ向かう。バスターミナルをうろついた挙げ句外に出たところで客引きにつかまり、Johor Bahruへのバスチケットを買った。
 夕刻となり、どこで食事をしようかと物色。ある中華料理屋で食事をとることにする。(この旅行中は朝がマレー料理、夕食が中華というパターンが定着した。暑いので夜はどうしてもビールが飲みたくなるがマレー料理では酒は禁物なので)
 ここでまたまた大失敗。メニューを見ているとどれもおいしそうなので、Sサイズで何品か頼むことにしたのだけれどサイズの感覚が日本と全然違うため、Sサイズでも2〜3人分あるのだった。ビールを飲みながら料理を待っていて、出てきたのを見て愕然、おまけにご飯まで頼んでいたのに。料理はとてもおいしかったけれど結局半分以上残すことになってしまった。
 ほろ酔い加減でさあ帰ろうと思ったら、どこ行きのバスに乗ればいいのか判らない。ホテルからチャイナタウンのネオンが見えていたからそんなに遠くはないはずと思い、およその方角を見当つけて歩き始めた。大通りを歩いていると、やがて歩道は暗くなり、最後にはあるのか判らなくなってしまった。車道は立派なのに歩道がこんな有り様なのは暑い国ではなるべく歩きたがらないのだろうかと暢気に考えていたが、これではどこに行くのやらさっぱり判らない。迷子になったという思いがぐるぐると頭の中を駆け巡る。とりあえずチャイナタウンに戻ることにする。近くのバス停から適当にバスに乗るとチャイナタウンに着いて一安心。
 しかし、プドラヤターミナルの中にある交番に I'm lost.と助けを求めてみたものの電話帳で調べて見ろとあっさり言われ、電話帳を調べてみるとMexico Hotelは載っていない、多少パニクッてこれはとりあえず別のホテルに泊まるしかないかと思ったとき、突如インスピレーションが湧き歩き方を見てみた。するとHotel Mexicoが載っているではないか。電話帳を調べても載っていないのも道理、順序を逆にしたのでは見つからない。タクシーをつかまえ、歩き方に載っている住所へ連れていけと言うと多少ふっかけてきたが交渉する元気もなく、帰りたい一心で了承。無事に帰り着いたのであった。
 その夜は疲れはてて、すぐに眠りに落ちてしまった。外国では、自分の現状確認することと決してあきらめないことを教訓として得た。

南へ(ジョホールバルの詐欺師)
'91.4.30
 プドラヤバスターミナルに行くとバスの発着所は別の所と言われ、少し不安になる。途中、ロティチャナイというパンケーキをカレーソースにつけて食べるもので朝食にする。バスの発着場は、ヒンズー寺院の裏手にあった。意外にきれいなバスなので、少し安心。一路、ジョホールバールへ。
 横に座ったおじさんは、インド系のようで黄色い布を体に巻き付けているのだが、体中からスパイスの匂いがして、鼻が曲がりそうなくらいに臭い。これには参って、休憩の度にあわてて逃げ出して、深呼吸した。
 途中昼食のため長めの休憩があったが、並んでいる料理の名が判らずただ指さして頼んだ。これは安い割にはうまかった。($3だった)
 ひたすら続く緑の中をバスは走る。赤茶けた大地とジャングルの組み合わせは単調で、やはり温帯の方が見てても過ごし易そうだ。
 ジョホールバールへと着き、町並みをながめながらホテルを物色していると声をかけてくるマレー系のおじさんがいる。何をしているんだと聞かれホテルを探していると答えると自分はシンガポールでソニーに勤めていると言い、安いホテルを紹介してやると言うのでついて行ってしまった。それと言うのもソニーでQuality Controlをしていると言われたのが、先日の韓国出張を思い出させ、親近感を感じてしまった為なのだ。
 ジョホールバールの滞在が短いと知るとおじさんは、タクシーツアーを勧めるのであった。しかし、タクシーをつかまえるときの様子が少しおかしく、空いているタクシーもあるのに変に選んでいる様子が不信感をかき立てた。やがてつかまえたタクシーはまだ人が乗っており、どこかに連れて行かれて身ぐるみはがれるのではないかと激しく不安を感じたが、これは杞憂であった。
 スルタン王宮、モスク、漁師村、ゴム園、ヒンズー寺院、中国寺院などいろいろと連れて行ってくれ、どれも結構おもしろくて楽しんだ。結局一時間半ぐらいタクシーでうろうろしたのだった。
 ところが、タクシーツアーも終わる頃になっておじさんの態度がおかしくなり、止まったところでタクシー運転手と結託したおじさんは行きと帰りにそれぞれ80シンガポールドル(約二万円)を支払えと言うのだった。(シンガポールドルで請求するところがやはりシンガポーリアンかと思わせた)クアラルンプールの空港から市内でも15マレーシアドルなのだから、とんでもない暴利だ。文句をつけると、ゴム園や漁師村に行って市街に出たので高いのだと言い張る。そんなはずはないと延々と交渉しているとこの運転手は妻や娘を抱えて生活が苦しいだの、おまえが払わないのなら俺が代わりに払わなければならないと泣き落としに出た。ついに腹を立てて、運転手に向かって100マレーシアドル(約五千円)突きつけてこれしか払わない、これで十分な、いや多すぎるはずだと言うと運転手は口をつぐんだままであった。(後で思うにその金額でもだいぶ儲かっていたのだろう、余り不満そうな顔はしていなかった)そのまま金を押しつけて、ただ、信じていたのを裏切られたので泣きそうな顔になってタクシーを降りた。とても、悲しい出来事であった。
 ホテルに一度戻り、バスターミナルに行って翌日のバスを予約した後、中華料理屋で自棄酒を飲みながら日記に悔しさを書きつづった。ジョホールバールにはもう居たくない。

マラッカ〜戦争の記憶
'91.5.1
 朝早く行動を開始する。まずは、シンガポールとの陸橋を見に行く。橋をわたればもう外国なのだ。地続きの国境と言うのは初めてだ。朝早くからたくさんの人が入国審査に並んでいる。
 公園で対岸のシンガポールの街をながめていたら、親切な華人の家族に話しかけられ、170番のバス(シンガポールの市内バス)で簡単にシンガポールに行けるから行ってきたらと勧められた。なにか前回の旅行からマレー系はいい加減かかもにしようと近づき、華人は親切という傾向がある。しかし、マラッカに行くバスの時間が決まっているのでバスターミナルへと向かう。
 バスに乗って適当に座るとしばらくしてインド系の女性が横に座った。他に席があるのにといぶかしんでいてふと気付きチケットを見ると席の番号が書いている。あわてて謝り、自分の席についた。
 出発してしばらくしてからとなりの席の華人のおじさんが日本語で話しかけてきた。聞くと大戦中にマラッカの軍政局に勤めていたとのこと。マラッカにつくまで日本語と英語でいろいろと話をした。いやなこともあったに違いないが、そうしたことには触れなかった。ただ、大戦中に虐殺された人の慰霊碑を指さしたときだけは心持ち目付きが鋭くなった気がした。
 バスを降りてトライショーに乗り、サテーまでご馳走になってから別れた。
 いつものようにただ街をうろつき、歩き方に載っている香港ホテルに行くと、ここはよく日本人の女の子も来ると行って台帳を見せてくれた。見ると一人旅の人が多い。女一人で大丈夫なのかと人ごとながら心配してしまった。
 海辺に出てふと気付いたのだが、ここの気候は8月の九州に似ている。そう思うとそれほど過ごし難いとも思わなくなった。
 マレーシアはどこでも夜になってからの方がにぎわう。暑いからだろうが、ここでも夜9時過ぎまでスーパーやいろいろな店が開いていて、絵はがきを買いに入ったスーパーでも女の子がけだるそうにカウンターに座っていた。そのうち、うつ伏せになって、寝てしまったので買う段になって起こすのが大変だった。いかにも外国人というようなたどたどしい英語を使ったためか、こんなところで何をしているのだろうという目で、いつまでも見られてしまった。

マラッカ〜現代へ
'91.5.5
 今日はいつもと異なり、朝ご飯も中華にした。(単なるラーメンだが)味は何となく日本のラーメンと違う。
 暑い中を歩いてポルトガル人の村へ向かう。何の変哲もないところだが、ポルトガル建築だといわれればそのような、白い壁とアーチを多用した家が建っていた。  帰りにSt John's Fortに寄ると少し高台になっていて、マラッカの街が一望できた。意外に小さな街のようだ。
 St Paulの丘に戻り、文化博物館、王宮博物館に入った。文化博物館では、案内板を見ていると館員から日本人かと聞かれ、そうだと答えるとおもむろに日本人とマレーシアという大戦中のコーナーに連れて行かれた。そして、この写真の先頭を歩いているのが山下大将だとか、これは亡くなった日本人が持っていた日の丸の寄せ書きだとか一方的に説明して怒った態度で去って行った。突然のこの攻撃にがっくり気落ちしたが、気を取り直して初めからみることにした。マレーシアで唯一の敵意のある態度だったが、これは後日理由らしきものが判った。実は、前日海部首相がマラッカを訪れ、僕にとっては不運なことに文化博物館も見学していたのだ。掃海艇の派遣を決めた経緯など、外から見たら何を考えているのか判らない上に、過去の経緯があるからこうしたことになったのだろう。
 改めて見ると、大戦中のコーナーも日本の占領が独立の契機になったなど、客観的な記述で特に敵対的なものではない。どこでも、許そう、しかし忘れまいというのが共通した態度のようだ。だから、忘れることは許されないのだろう。
 全体的によくまとまった博物館だが、当然のことながら現政府に都合の悪いことはかかれていない。マハティール政権の強圧的な態度はとても民主主義とは言えないものだし、マラヤ共産党の記述も否定一本やりで、独立にはたした役割など完全に無視している。
 王宮博物館は、スルタンの生活習慣がよく保存されており、館員も親切であった。文化的には、インドの影響が大きく、イスラム化して折衷的になっている気がする。  マラッカにおける華僑の伝統的な生活を保存したババニョニャヘリテージが見たかったのだが、昼休みにかかり見ることはできなかった。バスターミナルに戻り、セレンバンへと向かう。
 まず中央郵便局に行き、みんなにまとめて絵はがきを出した。旅行に行く度に通信費が馬鹿にならない。
 宿は、Carlton Hotelだ。華人のお姉さんがなかなかの美人で愛想もよい。しかし、どこのホテルも漢字の名前が本名のようだ。
 レイクガーデンをぶらぶらしてると、こんな暑い国でもジョギングをしている人がいて、驚いてしまった。セレンバンの街は、スマトラから渡って来たミナンカバウ族の影響が強く、水牛の角の形をした屋根を持つ建物が多い。グラウンドで、クリケットをしている光景を見て、イギリスの影響を感じてしまった。
 夕食は珍しく、マレー料理の屋台でとった。お決まりのビールは、スーパーで買って宿で飲むことにする。

KLへ
'91.5.3
 適当に街をうろつき、朝食をとる。ロティチャナイとミルクティーというのが習慣になってしまった。
 バスターミナルに向かい、博物館見学をしようと思ったのだが入り口が半開きになっていて、受付もしまっている。中に入ると幾人か掃除をしている人がいる、聞いてみると今日は休館日なのだそうだ。がっかりしたが、そこら辺を適当に見てよいと言うのでぶらぶらと手工芸品などを見て礼を言って出た。
 外の建て屋なども見て歩くと日本語の解説などもあり、日本人観光客の進出の激しさに驚いた。しばらくぼけっとしていたが気を取り直してバスターミナルに戻り、クアラルンプールへ戻ることにする。バスターミナル近くの食堂街でまたABC(Air Batu Chopunung:かき氷)を食べたくなり、入るとそこのおじさんが人なつこく、しばらく世間話をした。
 Carlton Hotelの受付のお姉さんは愛想がよくて美人だった。料金も安くて居心地も良かったし、今回の旅行でいちばんコストパフォーマンスが高かった。シャワーを浴びて出発だ。
 セレンバンからクアラルンプルへ向かうバスの中で隣に座ったお兄さんとしばらく話をしたが、住所を教えろといわれつい教えてしまった。今ごろ僕を保証人にしたてて日本で働いているかもしれない。
 KLに着いて両替商を探すがこういう時には見つからない。ホテルでもいいやと思いFurama Hotelをためすが$98と言われてあっさりと引き下がった。雨が降り始めた、とぼとぼと歩いていると楽安旅店と言うのが目につき受付に行くと$48と言うのでここにした。
 郵便局に行って葉書を出した後、また博物館に行って今度はゆっくりと見た。その後、セントラルマーケットから、チャイナタウンに向かい食事や買い物をした。夕方を過ぎると人がどこから来たのかというほど湧いてくる。果物の屋台や訳の分からない食べ物などいろいろとある。周りにつられてその奇妙な代物を食べてしまった。意外とおいしい。しかし、後で考えるとよく無事だなと思わないでもない。交渉ごとは苦手なので、Tシャツなど結構高く買わせられているかもしれない。どうにしろ一枚500円ほどだからたかがしれているのだが。

市内観光再び
'91.5.4
 今日はCountry Tourに参加しようと思いフロントに相談するとマラヤホテルの方へ行けと言う。マラヤホテルにピックアップセンターでもあるのかと思い行くと良く分からない。中に入って聞くとやはり申込が必要なのだった。泊まっているのでもないのに係りの人が親切に手配してくれ、しばらくマレーシア語と日本語を相互に教えあったりして、歓談した。
 ピックアップサービスの車がくると一日目のCountry Tourのガイドと一緒になった。少し話をする。このツアーは前のに比べると少し面白味にかけたが、Batu Caveなどはなかなか良かった。しかし、どこに行っても日本人から逃れられないものだ。向こうもそう思っているのだろう。
 ブキッビンタンで降ろしてもらい、バティックショップに入り買い物しようと思ったら、店の前で例によって怪しげなおじさんが近寄ってきた。妹が...のパターン。振り切って、店に入ると店の売り子が見知らぬ人間には気をつけた方がいいと言う。彼は妹に会わせると言わなかったか His sister ...と僕と同じ言葉を同時に口に出して、顔を見合わせ思わず爆笑。後は和やかに買い物の相談にのってくれた。この子はけっこうな美人で、彼女へのみやげにバティックはどうだという話になったとき、自ら服を身につけモデルになったのだが、スタイルが良くて胸元に目が行って困った。結局、自分用のシャツを2枚買ってそこを出た。楽しい買い物だった。
 トゥングアブドゥルラーマンやセントラルマーケットへ行き買い物に励む。いざとなると浪費家になってしまう、困ったものだ。スランゴールピューターでは広告を見て買いたいと思っていた三猿を見つけ喜んでしまった。
 レコード店では店員のおねえちゃんに今はやっている女性ボーカリストを教えろといって、Aishahのテープを買った。これは、情緒があってなかなかいける。
 夕食はリターンマッチということで、例の中華料理屋にいった。今回は、適当な量にとどめたが、それでも勧められて結構食べてしまった。
 クアラルンプルの夜はゆっくりと更けていく。名残惜しくてもここは僕の属する世界ではない。いつかまた来れると良いのだが。

帰国
'91.5.5
 今日の飛行機は早い。余裕を見て5時に起き、タクシーをつかまえ、空港に急ぐ。チェックインもすみ、暇な時間を例によって免税店めぐりをしてつぶす。余ったお金を使いきる。しかし、これらの免税店では日本円も通じて、日本の経済進出の激しさがうかがわれる。
 やがて、離陸、マレーシア旅行も終わりとなった。
 飛行機は台湾経由で日本へ向かう。トランジットで免税店に入って、章代ちゃんの就職祝いをしてないことを思い出し、バックを買った。ここで大失敗、まだマレーシアにいる感覚でいたら、表示がアメリカドルだったので払うつもりの金額が実際には2倍になっていた。成田に着く前に気付き、頭を抱え込んだ。