トルコ日記

'90.4.27〜5.5
きっかけ
出発
トランジット
ドバイ
到着
最初の受難
イスタンブールの街へ
ブルーモスクにて
サドゥックとの出会い
イスタンブール徘徊
盗難
警察へ
エザーン
イスタンブール散歩
黒海の街で
ヨーロッパとアジアの交わるところ
ユーノス
ハマム(トルコ風呂)
アンカラへ
アンカラにて
アタチュルク廟
カッパドキアへ
ネヴシェヒールの街にて
カッパドキアの奇岩
パムッカレへ
エフェスにて
再びイスタンブールへ
イスタンブールの日本人
イスタンブール観光
ベリーダンス
ドルマバッチェ宮殿
再び康子
さよならトルコ

きっかけ
 今回のトルコ旅行が実現したのは偶然意外の何物でもなかった。確かにいつかトルコに行ってみたいと漠然と思っていたが、何もなければ単なる夢で終わっていたかもしれない。それが、正月を十和田大湯のユースホステルで過ごしたときに、帰りに安比で一緒に滑ったカップルの片われにトルコに行ってみたいと何の気無しに言ったら(これも何の弾みで言ったのやら、今となってはもう思い出せない)、もう片方が旅行代理店に勤めているということで、改めて連絡をくれる約束をしてすべてが始まったのだった(それが空約束でなかった)。1月に連絡があり、仮予約が入っているという話のまま4月にはいると具体化してきて、ついに日程が確定したのだった。
 しかし、初めての海外旅行を航空券の手配だけで、それもトルコなんぞへ行くと言うのはやはり珍しいようで、「せめて英語は出来ますね?」「...」「普通ならどうぞ行ってらっしゃいと言うんですけど...。 どうか無事に帰ってきて下さいね」というのが航空券の受け渡しのときの会話であった。
 今から考えると恐いことなのだが、本人にとっては、何か現実味の無いままとんとん拍子に話が進み、気付いたら出発の日になっていたというのが実際で、不安を感じる間がなかったと言うのが真相かも知れない。海外旅行がどういうものかもわかっていなかったし、国内旅行の延長のような感覚だったのは間違いない。

出発
 どんなものを詰めて良いのか分からないまま荷造りをして(それも本当に出発の前夜だけ)、朝早くのONライナーに乗って成田へ向かう。出発の2時間前には到着していた方がよいとのことだったが、3時間以上前に着いてしまった。しかし、途中の検問の厳しさは話以上だった。いちいちバスから降ろして荷物検査まであるとは知らなかった。こんなことで、日本の表玄関と言えるのやら。機動隊の姿を見た外国人は驚くだろう。
 シンガポール航空の窓口が開くまで暇なので空港ロビーをうろうろする。やがて窓口が開いて、初めてのことでよくわからないまま受付をする。機内にはデイパック一つ持ち込むことにして、スリーウェイバックを預けたのだがシンガポールでの乗り換えのときにはどうしたら良いのだろう。一抹の不安がよぎった。
 暇なので、空港内をまたうろうろするがそう見るところがあるわけでもなく、日本食ともしばらくお別れと思いレストランへ入った。さすがは国際空港、異人さんの数が多い。彼らを観察しているとなかなかに用心深い。鞄は足の間においているし、周囲への警戒も怠っていない。外国に行くというのは大変なんだと何か納得した。
 やがて、シンガポール行きの搭乗案内があり、いよいよ外国へ飛び立つときとなった。出国審査、セキュリティーチェック、何もかも初めてで物珍しい、ついきょろきょろとしてしまう。デパーチャーロビーに来たものの、まだ30分以上ある。買っておいたトルコ語のテープで勉強をする事にした。ゲートは放射状に広がっており、各飛行機がよく見える。しばらく、離着陸に見とれていた。
 pm1:00頃、ついに出発となった。離陸のときの加速感、かなり激しいものがある。地上が見る見る内に小さくなる。まだ夢見ごごちで、うわついた感じなのが良くわかる。機内は非常にすいていて、快適であった。ただ、アナウンスの英語は聞き取りづらく、少し不安を感じた。食事もまあまあだし、飲み物も飲み放題なので割合ごきげんだった。

トランジット
 pm7:00頃、シンガポール、チャンギ国際空港に到着。通路の隙間から熱帯の風を感じる。チャンギ空港は、成田など全く比較にならないほど大きく、また設備が整っている。ここで乗り換えなのだが、預けた荷物がどうなっているのか良いのかわからない。受け取り場所は外にあるし、イスタンブール行きのタグを付けられたような気がするし、聞くのも面倒くさいので、そのままほっておくことにする。
 次の飛行機まで5時間ほどあるのでなるべく英語に慣れようと、食事、買い物、郵便と色々なことをやってみる。するとだんだん自分の英語が通じないことが判ってきた(高々一枚の葉書を日本に出したいというのが通じないのはつらい)。これはまずい、この旅行で初めて現実感を感じる一瞬。不安が黒雲のように地平線に現れ、気分が盛り上がってきた。
 疲れて、ロビーのベンチに座り搭乗案内を待つが、出発1時間前になってもイスタンブール行きの案内がない。不安にかられ、時間を間違えたのかとチケットを取り出し、スクリーンを確認して納得。乗る飛行機は実際にはマンチェスター行きで、イスタンブールには燃料補給で寄るのであった。急いで、出発ロビーへ行き、pm10:00時過ぎにようやく出発。ここからは、日本人の姿がほとんど目につかない。スチュワーデスも欧米人優先という感じがした。

ドバイ
 am1:30頃燃料補給のためドバイに到着。面白そうなので飛行機を降りて、空港内をうろつく。飛行機にずっと閉じこめられているのは退屈だし、食事も何度もあって体を動かしたくなる。真夜中というのに熱風でむっとする。例のアラブの民族衣装姿があちこちに目につく。免税店も金色の装飾を多用した独特のもので、非常に面白い。ただ、チャドル姿の女性は目にすることが出来ず少し残念だった。ただ、さすがに空港係官の女性は普通の制服であった。
 やがて離陸、いよいよトルコだ。空が白みかけている。窓からかいま見るのは旧約聖書をほうふつとさせる世界だった。あれは、イスラエルやヨルダンなのだろうか?

到着
 am6:30頃、イスタンブール、アタチュルク空港へ到着。いよいよ僕のトルコ旅行が始まる。
 入国審査に向かうと意外に日本人が多い。ツアーコンダクターらしき人にたしなめられているおばさんやはしゃいでる若い女の子がいたりして驚いた。やがて僕の番になって、怖い顔をした審査官に向かい合う。「Good morning Sir.」「Welcome to Turkey.」さい先がいいような気がした。
 空港内の銀行でトルコリラに両替し、外のバスターミナルへ向かう。入り口にはカービン銃を構えた兵士(警察官?)が立っている。少し恐怖感が湧く。自動ドアの入り口を出て、あっと気づくとそこからはもう中に入れない。しかたないので、そのままバスを探す。バス乗り場が良くわからないが、適当に待っているとそれらしいバスがきてバックパッカーたちが乗り込むので続く。このバスは、国内線の空港に寄ったので、ここで降り、東部に向かうという漠然とした計画の元に空いている飛行機を探すことにする。

最初の受難
 しばらく考えて、最初の計画どうりノアの箱船がたどりついたというアララット山の麓までいくことに決め、エルズルムへの便を予約しようと窓口に向かう。しかし、ここで最初の受難に出会う。窓口のおばさんに東部に向かう便を予約したいと伝えたのだが、いかんせん言葉が通じず、次第におばさんはいらいらしてくる。ようやく意味が通じ、調べてくれたのだが「To Van?」「Full!」「To Erzurm?」「Full!」「To Ankara?」「Full!!」と容赦無く、挙げ句の果てにはおまえは来るところをまちがえている、あっちに行ってしまえといった類のことを怒鳴られ、早々に落ち込んでしまった。隣のお姉さんが旅行者で良く分からないんだからと取りなしてくれたものの、この件のおかげでトルコ人女性の印象は極めて怖いものとなってしまった。後で考えるとちょうど断食あけの休みにあたっており、トルコではバカンスシーズンで取れるわけがないのだが、そんなこと知りもしないので非常識な奴と思われたのだろう。
 しばらくどうしようか悩んだのだが、仕方がないのでイスタンブール市内にとりあえず出ることにした。しかし、今度はどうやって出たらいいのか分からない。外にバス停らしきものがあるので、そこで待っているとやがてバスが来て止まった。どこ行きか書いていないので不安だが、先ほどの件で人に聞く気力もなく、乗り込んでただ出発を待った。

イスタンブールの街へ
 やがて、何の前触れもなくバスは発車した。5分、10分とバスは走る。どことも分からずバスは走り続ける。さすがに不安になってきた頃、右手に海が見え一安心、イスタンブール市街に向かっていると思えた。やがて、街がにぎやかになってき、所々でバスが停車し、その都度乗客が降りて行くのだがそこがどこかはこちらにはさっぱり分からない。車窓から一瞬大きなモスクが見え、しまったと思ったのだが、バスはあっという間に通りすぎていく。そして、バスは金角湾を越え、トルコ航空事務所前に止まったのであった。
 金角湾をはさんで、ブルーモスクやアヤソフィアと覚しき建物が見える。交通手段が今一つ分からないので歩いていくことにする。早朝とて人通りの少ない道をとぼとぼ歩くのは心細い。途中怪しげなおじさんとかがふらふらしていて不安を呼ぶ。やがてガラタ橋に出、ブルーモスクがはっきりと見えて一安心。
 ガラタ橋は浮き橋で老巧化し、平行して新しい橋が建築中だが、新市街と旧市街を結ぶメインストリート、朝から観光客らしい欧米人もいるし、多くの人がたむろして魚などを釣っている。橋の下にはロカンタが並び、ここで釣れた魚などを出しているようだ。
 ガラタ橋の突き当たりにはかなり大きなモスクが建っており、鳩が群れて餌をついばんでいたりのどかな風景だった。ここで驚いたことには、6車線もある道路に横断歩道がなく、歩行者は疾走してくる車を避けながら道路を渡るのだった(最初は本当に怖かったが、そのうちなれてしまった)。
 ガラタ橋の正面にあるモスクの裏を抜けると小さなパザールが始まっており、こんな所を通る東洋人は珍しいのかじろじろと時には振り返って見る人までいて、何か見せ物になったような気分がするのだった。
 ブルーモスクらしき建物を目標に、ひたすら歩き続け、ようやく正面に着いた時にはもう9時頃になっていた。このとき初めて知ったのだが、ブルーモスクとアヤソフィアは向かい合って建っているのだった。

ブルーモスクにて
 さてブルーモスクに入ろうとすると突然片言の日本語で話しかけてくるおじさんがいる。「あなたは日本人か」「今からブルーモスクに入るのか」・・・。何となく不気味なので、意地になって英語で答えていると向こうも英語に切り替え、入り口まで連れて行ってくれ、帰りに裏にあるパザールに行こうと宣言されてしまった。
 ブルーモスク(本名スルタン・アフメット・ジャーミー)は内部が青を基調としたタイルで被われており、初めて見たときの感動は言葉で言い表せない。現在でも祈りの場として使われているため、床には絨毯が敷き詰めてあり、一日5回の祈りの時には信者しか入れない。しかし、ここではいやな光景を目にしてしまった。日本人と覚しき二人連れの女の子がイスラームの祈りの真似ごとをして記念撮影をしていたのだ。前にも、バチカンに行って十字架の前で懺悔ごっこをやってまわりの顰蹙を買った日本人学生の話が新聞に載っていたが、どうも宗教、慣習などに付いて心配りが足りない人が多いように感じられる。

サドゥックとの出会い
 かなり長い時間を中で過ごしたのでもう居ないだろうと思って外に出たら、例のおじさんはそこに居たのだった。ここまでされたらもうどうなってもいいやとあきらめてついて行くことにしたのだが、小さな小道に曲がって人通りの少ない方へ行ったときにはどうなることかと思ったものの、恐れる必要もなく、たどりついたのは小さな絨毯屋、そこにいたのがサドゥックであった。
サドゥックは20位だが父親の援助を受けてこの絨毯屋を経営しているとのことで、ここに連れてきてくれたおじさんは彼の叔父であるらしい。彼は訛りの無いきれいな日本語を話す、訳をきくと2年間ほどイスタンブールの日本領事館で掃除夫をしながら日本語の勉強をしたそうだ。友達はみんな大学に行っているのにほとんど無給でそんなところで働くなんて馬鹿な奴だとみんなに言われたよと語ったときには彼の強さと先見性に心を打たれた。
 色々な話をしたが彼も商売をやっている身、やがて絨毯のことになり、最初は見るのも断ったのだが見るだけでもと言うことで、次から次へ色々な絨毯を見せてもらった。その中でもやはりヘレケの絹の絨毯が見事で、思わず見とれ、向きを変えては眺め、戻しては肌触りを楽しみ、いつのまにか2時間以上過ぎ、そのころには買わずにはいられない気分となったのであった。サドゥックもこんなに長い時間をかけて選んだ人はいないと言って少しまけてくれたが、初日からカードのお世話になることになってしまった。
 サドゥックは僕がその日泊まるところを決めていないのを知るとお父さんが経営しているホテルがあると連れて行ってくれた。気に入れば泊まればいいよと言うのでついていくと、まあ快適そうなホテルで、泊まることにした。

イスタンブール徘徊
 ホテルに荷物を預けてまずは、聖ソフィア寺院へ行く。ブルーモスクと比較すると美しさでは全然かなわないが、さすがに歴史の古さを誇るだけのことはあり、色々な遺物が保存してあった。
 朝から何も食べておらず、サドゥックの店でお茶を飲んだくらいではさすがにおなかがすいたので、どこかでご飯にしようと思ったが適当なところが見つからない。店頭で、大きな串に刺した肉を回しながら焼いている店があり入ることにする(これは、ドネルケバブという料理だった)。入ると、小学生位のボーイが緊張した顔をして、近寄ってもこない。しばらくして別のもっと年のボーイを呼んでくる。このボーイは近づくと、両手を前であわせメルハバ(こんにちは)と挨拶した後、何が欲しいかと尋ねる様子なので、メニューを指してドネルケバブをパンにはさんでもらう。これは結構いける味であった。
 腹がいっぱいになったところで街を探検する。シルケジの桟橋に向かい、そのまま金角湾に沿って広がる公園を歩く。イスラームの国なのに昼から酒を飲んでいる人や(これはさすがにパトロールの警官にとっつかまっていた)肩を寄せあう恋人達が居たり、のどかな風景だった。

盗難
 アタチュルク橋の下をを通る頃にその変事は起きた。子供連れの数人のおばさんがたむろして変な雰囲気だったので避けて行こうとすると、手すりに腰掛けていたおばさんがてんかんのような発作を起こして後ろ向きに僕の方へ倒れてきた。腕をつかまれて身動きできない僕は、他のおばさんと一緒に彼女を助け起こし、近くにとまっていたタクシーに乗せて一息ついたのだった。そのとき、足元に物の落ちる音がして拾い上げると、それは一本のボールペンであった。はっと気がつき、ウエストバックを見るとチャックが空いている、しまったと思ったのも後の祭、おばさん達は皆タクシーに乗って逃げ去るところであった。しばらく追いかけたものの、いかんせんすぐに見失ってしまった。
 どうしよう、どうしようとただおろおろするばかりであった。気を取り直し、とにかく警察に連絡しようと思い立ったのだが、警察署なんてどこにあるか分からない。通行人に警察署がどこか聞いてみるのだが、英語がさっぱり通じない。ドイツ語かフランス語は出来ないのかと聞かれがっくりしているとたまたまパトロール中の警察官に出会った。勢い込んで事情を話すと英語は分からないと言われ再度がっくり。しかし、警察官が英語の分かる人を通行人から探してきたので、その人に一所懸命に説明すると今度はおまえの英語は分からないと言われてどん底に落ちてしまった。彼は、非常に気の毒に思ったらしく、おまえの英語は分からないけれど、ブルーモスクのそばのツーリストインフォーメーションなら助けてくれるだろうというのだった。それ以上どうしようもなく、彼の親切に感謝して握手して別れたのであった。
 届けるかどうかしばらく迷ったけれども、結局行くことにしてスルタンアフメットジャーミーへとタクシーを飛ばした。
 インフォーメーションを見つけ、中で事情を説明すると、そのスリ集団は悪名高いらしく、すぐに理解してくれ警察へ電話してくれたのであった。しかし、説明してくれたところによると、盗難証明書を作るためには自分で警察へ言って説明しなければならない、でも、警察官は日本語はおろか、英語も分からないから、誰か通訳してくれる人を連れて行かないといけないだろうとのこと。それを聞いて一瞬目の前が真っ暗になりそうな気がしたが、とりあえず警察署の住所をメモしてもらい、礼を言って外に出たのだった。もう、頭に浮かんだ考えにすがるしかない。僕の足はサドゥックの店へと向かうのであった。
 「どうしたの?」突然脇から日本語が聞こえてきた。見ると、サドゥックとその友人がブルーモスク前の手すりに腰掛けているのだった。

警察へ
 「助けて下さい」それが僕の第一声だった。怪訝な顔をしているサドゥックに事情を話すと彼は僕を連れて行ってくれると言ってくれたのだった。彼は店番を別の人に頼むとまずは近くの派出所に行き、どうしたら良いかを相談してくれた。やはり、事件の起きた場所の管区の派出所に行かなくてはならないと分かるとタクシーを捕まえ、そこへ向けて出発した。一般にトルコの派出所は、問題のありそうな場所に立てられているため、場所が分かりにくくタクシーの運転手も通行人に聞きながら探していた。サドゥックが言うには、そうした立地は何か起きたときにすぐ対処できるよう配慮されてのことだそうだが、そうすると結構治安は悪いのかも知れない。  ようやく捜し当てたその派出所前に立って警戒しているのは、僕が助けを求めた警官であった。彼は、僕がその派出所まで来たのに少し驚いたようであった。中にはいると比較的若い警官(所長?)が居て、僕に事件を語るように促すのであった。サドゥックの助けを借りて、英語を交えた日本語で説明し、あるいは状況を身ぶりで説明したのだった。そうした事実を警官は報告書にまとめていき、1枚の盗難証明書ができあがった。
 初めは落ち込んでいた僕も警官とサドゥックの冗談混じりの会話に心がなごみ、しまいにはずいぶん明るさが取り戻せた。トルコ人は地中海的な明るさは持っていないものの冗談が大好きで、生真面目な僕は絶好の対象になりがちだった。そうこうして、報告書が出来てもしばらくは、色々な会話をして楽しんだ。
 結局被害は、現金2万円、運転免許証、海外旅行保険証、電卓であった。お金は、危険分散のため7カ所程度に分けていたため、実際の被害としては大きくなかったものの、精神的には(初日ということもあり)かなり参ってしまった。
 警察署を出るとサドゥックは、証明書を書き上げた後もしばらく僕らを引き留めておいたのは、発行に対してスピードアップするための心付けが欲しかったからに違いないと言うのだった。絨毯屋というのは一般に金持ちと思われているらしく、そうしたことは良くあるらしい。しかし、僕は脳天気にそうしたことに気付かないし、サドゥックは払う気がないのであきらめたようだ。トルコ社会の一端を見たような気がした。
 ようやくサドゥックの店に戻ったときにはもうぐったりとなっていた。そこでサドゥックのお父さんに出会った。なかなか立派な身なりの紳士で、トルコで盗難にあったということで少し恥じている感じであった。そのまま、サドゥックの店で休憩。
 しばらくすると、昼にも来ていた日本人が二人やってきた。サドゥックと夕食の約束をしているとのこと。サドゥックは僕も誘ってくれたので、言葉に甘えて付いていくことにする。彼らは、アブダビ国立銀行の職員(ただし日本の銀行からの出向)だそうで、断食休みを利用してトルコに観光に来ているのだそうな。連れて行かれたのはクルド系のトルコ料理レストラン、意外に高級そうな雰囲気が漂っていた。聞くとサドゥックもクルド系とのこと。料理はどれもおいしく、満足できた。
 サドゥックの店を経由してホテルに戻り、疲れはててベッドにもぐり込み、ハードな一日がようやく終わったのであった。

エザーン
 ふと目覚めると何かの音が闇に響いている。耳を澄ますと、それはエザーン(祈りを呼びかけるコーランの詠唱)であった。ブルーモスクからスピーカーを通じて、夜明け前の街に流されているのだった。しみじみと外国に来ていることを実感し、また眠りに戻るのがもったいなくて友人への絵はがきを書いた。
 夜が明け、朝食に行くとそこには典型的なトルコの朝食が待っていた。それは、パン、卵、オリーブの実、紅茶からなっており、バターと蜂蜜が添えてあるというものだった。パンはおかわり自由で、これが意外なほどおいしく、たらふく詰め込んでしまった。

イスタンブール散歩
 トプカプ宮殿にでも行こうと街に出るとすぐに声をかけられる。「あなたは日本人ですか?どこに行くのですか?」(またか!)「トプカプ宮殿へ」「おお、トプカプ宮殿は今日は休日なので昼からしか開かない。お茶でも飲みにうちの店へ来ませんか?」いつもの手かと思い、振り払って歩き続ける。後で知ったのだが、日本人は金持ちと思われているらしく、どうにか店に連れ込もうと博物館は休みだから、店に休みに来いとか良く使う手らしい(実際には休みではなかった)。
 何となくバスに乗ってみたくて、チケットを買ってバスに乗る。ある区間は一定料金なので、降りる場所は気分で決めようと考えた。揺られながら外を見ていると金角湾に来た。ちょうど良いと思い降りたのはシルケジ駅前だった。シルケジは、オリエント急行の終着駅でもあり、大きなバスターミナルにもなっているが、フェリーの乗り場でもあった。
 降りてぼーっとしていると、何やら西洋人らしい人が列をなしている。何だろうと思って後ろについて並び、窓口まで来るとそれはボスポラス海峡クルーズフェリーのチケット売り場だった。これはいいと思って、そのままチケットを買い、うやむやのうちにボスポラスクルーズへと出かけたのであった。
 10時になりようやく船は出航した。途中ドルマバッチェ宮殿、ルメリ・ヒサール、第一ボスポラス橋、第二ボスポラス橋と止まり終点は黒海への出口アナドル・カヴァウであった。アナドル・カヴァウは小さな街で、港にはたくさんのレストランがあった。

黒海の街で
 船の上から丘の上に古城が見えたので、まずそこへ行くことにした。何か良く分からない道を丘の方へ頼りなく歩く。ただただ、野次馬根性のなせる技であろう。ようやく丘にたどり着くと、そこは羊の放牧場になっていて、何となくのどかな風景が広がっていた。そこは、黒海や海峡を見おろす場所になっていて、眼下には海峡を行き交う船が見える。100年ほど前には、交通の要衝であるここをおそらく帝政ロシアは奪おうと必死になっていたのであろう。そして、オスマン・トルコはそれに反撃し、海峡には砲声が響きわたり、あるいは倒れ、あるいは傷ついて多くの命が失われたことだろう。そうした幻想にひたれるような、今は落ち着いた場所であった。  のんびりと歩きながら街の方へ戻ろうとしていると写真を撮ってくれと声をかけられた。白人にしか見えない男が女性を二人連れてにこにこしている。黒海を背景に写真を撮る。
 トルコの街並は、ヨーロッパ的だ。アジアのごちゃごちゃした雰囲気ではない。人種的にも占領支配下においたギリシャやスラブ系との混血が進み本当にアジア系かと思うような顔立ちが特にイスタンブールでは多い。
 アナドル・カヴァウの街に入るところで先ほど写真を撮ってあげた3人と一緒になった。雑談をしながら歩く。彼はコンピューターメーカーの営業をしているとのことだ。ここで僕は致命的な間違いをしてしまった。Don't you like Turkey? と聞かれて No と答えてしまったのだ。言ってすぐに間違いに気がついたのだが、取り繕いようがなくて手が打てなかった。雰囲気が悪くなってしまったのは言うまでもない。  港で3人と分かれ昼食をとることにする。この街は魚料理で有名とのことで、ロカンタがたくさんある。適当に入ると日本人(東洋人)は珍しいらしく、みんなちらちらとこちらを窺う。店員(かわいい男の子が給仕をしてくれたのだが)も気の毒になるくらい親切だった。
 メニューは見ても分からないのだが、歩き方に載っている単語と見比べて適当に頼む。たぶん鯵や鯖の仲間だろう。ナイフとフォークを使うしかないので苦労したけれど、料理はおいしかった。けれど、出るときにチップを渡すのを忘れまた失敗。慣れない習慣はしかたない。
 船着き場の待合い室に行くと二人連れの日本人がいる。今回の旅行ではなるべく日本人と関わりたくないと思っていたが、こういう状況ではいたしかたない、何となく道連れとなったのだった。

ヨーロッパとアジアの交わるところ
 船は往きと同じ航路をたどりシルケジへと向かう。やがてイスタンブールの街並が見え始める。日も西に傾き、少し霞がかかったような感じでトプカプ宮殿やブルーモスクがシルエットを浮かび上がらせていた。この光景はどことも比べようがない、イスタンブールだけのものだ。アジアとヨーロッパの交点という冠称を与えられたこの街だけのものなのだと感じた。
 船はにぎわうガラタ橋を横目にシルケジの桟橋へ到着。道連れになった二人を連れてサドゥックの店へ行くことにした。彼らはまだバスに乗ったことがないとのことで、バスへの乗り方を教え(と言っても乗車前にチケットを買っておくだけなのだが)、ブルーモスクへのバスに乗った。トルコのバスは結構運転が乱暴だ。二人はしっかりつかまっていなかったので、振り回されていた。

ユーノス
 サドゥックの店に着くと二人は明らかに堅い様子で、絨毯を押しつけられるのではないかと警戒していた。僕は普通はこんなにも警戒するのかとのんきな気分でサドゥックと話をしていた。
 二人が土産を買いに行きたいと言うのでサドゥックはパザールの他の店へと連れて行ってくれた。これは後で気がついたのだが、トルコ人は店に連れていくと言うと必ず自分の知り合いの店に行く。これは当たり前のように思えるが、サドゥックの店にたむろしている誰もがその度に違う店に連れていくということは、ひょっとして手数料でももらっているのではないかと勘ぐりたくなる。だから途中にある店に入りたいと言っても「ここはやめた方がいい」などと言われる羽目になる。
 僕ら三人を店に連れていくとサドゥックはすぐに自分の店へ戻ってしまった。多くの日本人を相手にしているので、警戒心を持っている人間につきまとっても逆効果だと知っているのだろう。
 三人でしばらく物色し、一人がいろいろと買い物をしている間に僕は店の子と話をしていた。かわいくて、人なつこい男の子だった。概してトルコの小さな子は男女を問わずにかわいいようであった。
 その店を出てしばらく歩くと宝飾品店があり、二人連れの片われが見たいと言うので入った。そこには、トルコ石と金銀のアクセサリーを扱う店で品ぞろえが結構豊富であった。例によってしばらくするとチャイが出てき、ついでに今回はお菓子まで出てきた。それは日本の餅に似た、ただし非常に甘いものだったが、結構おいしかった。その店の主人はしばらくすると近くで絨毯屋をやっている兄弟を呼びにやり、やってきたのがユーノスであった。トルコでの血族意識はかなり強いようで、親子兄弟で店をやっているというのが普通のようだった。ユーノスはイスタンブール大学の学生で結構上手に日本語が話せる(後で聞くとサドゥックに習っているとのこと)。彼がどこか行きたいところはないか、日本の話が聞きたいから案内するというのでハマムへ行きたいというと、イスタンブール大学前のハマムに連れて行ってくれた。

ハマム(トルコ風呂)
 ハマムは大きく洗い場と体を暖める石風呂に分かれており、洗い場は水とお湯が出る蛇口とお湯受けがある続きの小部屋みたいなのが石風呂を取り囲むように配置されている。
 石風呂は膝より少し高い直径5m位の円盤状の岩でできており、この上に寝そべるのだが、これが下から暖められているようで、ぽかぽかと暖かい。十分に汗をかいたら流し場で汗を流し、また石風呂で体を暖める。これがハマムの入り方であった。  ユーノスやその友人と一緒にふざけてはしゃぎながらハマムを楽しんだ。マッサージの真似ごともしたが、実際のマッサージは屈強のおじさんから垢すりに始まり、エビ固めやチキンウィングと言ったプロレスの技にしか見えない仕打ちを受けるというかなり強烈なものだ。僕はさすがに頼むのを遠慮した。
 ハマムから出た後ブルーモスクの近くのロカンタで食事をしてからユーノスが店番をしている絨毯屋に戻った。途中ユーノスは宝飾品店をやっている兄達から叱られていた。ユーノスはどう見ても商売熱心ではなく、上手ともいえないから仕方無い点もあるけれど、叱られている原因が僕たちにあることを考えると気の毒な気がしないでもない。しばらくユーノスの店で遊んだ後ホテルに戻り眠りに着いた。

アンカラへ
 今日はイスタンブールを出る予定でいた。しかし、イスタンブールにいつ戻ってくるか分からないので、その前に帰りの飛行機のリコンファームをしなければ行けない。ホテル番のおじさんに頼んでシンガポール航空の事務所に電話をかけてもらおうとする。が、二件続けて番号違いで不安に思っていたら、三件目に見つかりほっとしたのも束の間予約用のコンピューターがダウンしたとのこと。最初は東部のエルズルムかアンカラまで飛行機で行こうと考えていたのだが、この時点であきらめた。一時間ほど待って電話するとようやくリコンファームでき一安心。しかし、電話は難しい。会って話すなら身ぶり手振りででも通じるが、正確に意志を伝えないととんでもないことになってしまう。
 とりあえず宿を出て長距離バスターミナルへ向かう。宿泊代を精算するときに細かいお金がなく、10万リラ札を出すとお釣りがないと言われる。仕方無いのでお釣りはいらないと言って5千リラ程はおじさんへのチップにしたらおじさんは非常に嬉しそうにしていた。おじさんの罠だったのかもしれない。
 途中サドゥックの店に行くと彼は不在で、店番の男の子にこれからイスタンブールを出ることと感謝の意を伝えてもらう。
 友人達に書いた手紙を出すために郵便局へ行った。郵便局は雑多な人で混雑している。ハガキを日本へと言うと、窓口のおばさんはその額の切手は無いという。窓口でもめていると隣の窓口のおじさんが切手を出してくれてことなきを得た。どうもトルコのおばさんとは相性が悪い。
 バスに乗って、長距離バスターミナルへ向かう。良くわからないけれど、バスの中でトプカプガラジと念仏のように唱えていたら、近くにいた人が次だとかここだとか言ってくれるので、無事にたどり着くことができた。
 長距離ターミナルにはたくさんのバスがあって行く先がいろいろと書いてある。どうしたらいいのだろうと思っていたら、案ずることはなく客引きのおじさんが近寄ってきて、どこに行くのだと尋ねてくる。アンカラだと答えると事務所に連れて行かれ、チケットを発行してくれた。
 いよいよアンカラへと向かうが、既に昼近い。アンカラまでは8時間ほどかかると聞いていたので着いた後が非常に不安になる。まあどうにかなるだろう。バスはベンツ製で、乗り心地は非常によい。たまに三菱製のバスも見かけるが、ほとんどはベンツ製のようであった。又、乗用車はプジョーやフィアットが多いようで、日本製はほとんど見なかった。
 アンカラまでは単調な光景が続く。ちょうど北海道の牧草地や畑を思わせるような広がりだ。そういえば、このあたりは北海道と同じくらいの緯度にある。おまけに2000m近い高原なのでアンカラへ入る手前の峠では雪に降られ怖い思いをした。事故が起こらなくて良かった、途中何件か事故っている車を見たのでしみじみとそう思ってしまった。

アンカラにて
アンカラに着いたのは夕方7時半を過ぎていた。既に日も暮れかかり、宿を探す不安が重くのしかかってきた。とにかく歩き方に載っていた、安宿の集まっていると言うウルス地区へ向かうことにする。アンカラはイスタンブールと異なり、計画的に作られた街のためか秩序正しさを感じる。その分人間くささが薄いのは致し方無い。  闇が迫り気は焦ってくるが適当な宿が見つからない。意を決してホテルバイカルというのに入って、英語は分かるかと聞くと分からないと答えられて一瞬パニックになったが、相手はすぐに料金表を持ち出し、分からないなりに意志の疎通ができ、一安心であった。しかし、シャワーもついていないような部屋で、トイレもトルコ式(和式みたいなの)だったが、まあこぎれいではあった。
 さて、次は夕食だ。ホテルの一階がレストランになっていたができれば外で食べたいと思い、街を歩くことにする。しかし、時刻も遅いせいかあいているレストランが少ない。暗くなった街を歩き回るがこれといったのが見つからず、ついにタバコ屋のおじさんに聞くことにした。ところが何と教えてくれたのは、ホテルバイカルの一階のレストランであった。あきらめて、このレストラン(Duman Rokanta)に入り、例によってウィンドウを見ながら注文をする。しかし、このレストランは意外に味が良く、儲けものであった。満腹して部屋に戻り、シャワーはついていないのでそのまま寝た。

アタチュルク廟
今日は有名な観光地カッパドキアへ向かう。その前に時間がありそうなのでアタチュルク廟へぜひとも行こうと考えた。そもそもトルコに来たのがアタチュルクを偲ぶためみたいなのだから。さて、まずは腹ごしらえ。ロビーの片隅でおなじみとなった朝食の組み合わせ(パン、蜂密またはジャム、チーズ、オリーブと紅茶)を平らげる。このシンプルなのがとてもおいしい。
 とりあえずバスターミナルへ向かいチケットを購入する。2時間ほどの余裕を見てアタチュルク廟へ。アンカラ大学の周りで少し迷ったが、警察官に聞いて無事たどり着く。アタチュルク廟は軍の管轄になっていて、荷物も守衛所へ預けなくてはならない。歩いていくと壮大なモニュメントが見える。人は少ないがかえって雰囲気がよい。正面にアタチュルクの遺体を納めた大理石の棺が荘厳な建物の中に安置されている。それに対応するように、ちょうど背面にはアタチュルクの副官であり、忠実な友であったイノニュの棺が正対している。おそらくイノニュは自ら願ってこの位置を確保したのだろう。幸せな人だ。
 このアタチュルク廟でこれまでに知らなかったいくつかの事実を知った。養女がいてパイロットになってたこと、皇室との交流もあったこと。時間が過ぎるのを忘れそうになるくらいに浸っていたが、バスの時間が迫ってき、やむなく去ることとした。

カッパドキアへ
 カッパドキアの中心都市、ネヴシェヒールへは4時間ほど。隣には青年が座っていて、タバコを勧められたのがきっかけでお互い下手な英語で会話を試みた。名は、メフメット=クラクと言い、電気技師をしているとのことで、同じ技術者同士で話が盛り上がった。彼とはトルコのこと日本のことを飽きること無く話した。風土、習慣、歴史。途中、休憩のドライブインではチャイをおごってもらったりしながら、本当に楽しい時間を過ごせた。ネヴシェヒールに着いてそのまま別れたのが少し残念だった。
 バスを降りるとそこが悪名高きチューリップインフォーメーションの事務所で、そのまま客引きにつかまって入ってしまった。入ると既に日本人のカップルがいて、明日のカッパドキアツアーに行くらしい。アンカラでもらったチラシを見せるとそれは以前の価格で今はもっとするという。この野郎と思ったものの、交渉をする気にもなれず、いいやと思って申し込んだ。泊まるところはあるのかと聞かれ、無いと言うと紹介してやろうと言う。又巻き上げるつもりかと思うと、こちらの気持ちを見すかしたように別に僕らは手数料をとっていない、自分で探してくれてもいいと言う。まあいいやと思ってホテルもとってもらった。
 やがてホテルからの迎えがきて、車に乗ると彼らは僕の帽子がいたく気に入ったようで、しばらく帽子を交換した。そういえば、イスタンブールでもよく帽子をほめられた。何ということはない、登山用のレインハットなのだが。

ネヴシェヒールの街にて
 ホテルの部屋はアンカラより安くて格段によい。さすがに地方は物価が安い。カーテンをあけると丘の上に城が見える。別にすることもないので行くことにする。外に出ると雪が降ってきた。狭い路地を右に左に曲がりながら城をめざす。帰りはたぶん迷うだろうと思いながら歩いていると向こうからやってきた若いトルコ人が英語で話しかけてきた。「日本人か?城に行くのか?それならそこのミナレットを曲がって後は一本道だから迷うことはないよ。僕には日本人のペンパルがいるんだ、じゃあ気をつけて。」こうしたちょっとした出会いが僕は好きなのだ。彼と握手をして別れ、城へ向かう。途中夕食の支度をしているのか、おばさんが外の水道で野菜を洗っていた。僕を見ると驚いた様子で目を丸くしていた。日本人がここまで入ってくることはそうないだろうと思いながら、会釈すると、にこっと笑い返してくれた。
 城は荒れ果ててたいしたものではなかったけれど、そのうらさぶれたところが風情があって良い。城のすぐ下まで家が迫って、城壁を歩いていると家の屋根を歩いているようだった。さっきの道を戻ると洗い物をしていたおばさんがドアから顔を出して様子をうかがっていたので会釈するとにっこりとした。やっぱり珍しいのだろう。
 帰り、やはり迷ったけれどそう大きな街ではないのですぐにホテルに出た。そのまま街を散歩することにする。本当に小さな街だ。チャイ屋さんでお茶を飲み、みやげ物屋さんで絵はがきを買い、ふらふらと時間をつぶした。夕方になったのでそのまま食事に出かけることにする。うろうろした挙げ句、場末の定食屋と言った感じの店に入り、ビールを頼むとおいていない。仕方がないのでアイラン(ヨーグルトの水割り)と何品か頼み腹いっぱい、それも信じられないくらい安い値段で食べた。やはり、地方はいい、またそう思いながらホテルに戻り、熱いシャワーを浴びて寝た。

カッパドキアの奇岩
 朝起きてまた手紙を書く。旅行に出ると日頃のご無沙汰を詫びる意味もあってひたすら手紙を書く。元々手紙は書くのももらうのも好きなのに、時間がなくて書けなくなってきている。年をとってきているということでもあるのだろう。
 朝ご飯は例によってパンとチーズとオリーブとお茶。でも、どこに行ってもパンはおいしい。さすが食糧自給率100%。
 郵便局に寄ってエアメールを出そうと思い、迎えに来てくれると言われていたが散歩がてら事務所まで行くことにする。事務所に着くと彼らは飯を食べている最中。言い訳しようとするとノープロブレム。トルコでいちばん聞く英語がこれだ。
 やがて、バンが来て出発。乗り込もうとすると中にはすでにOL風の日本人二人連れがいる。なんかいやだなと思ったがしかたない。途中、郊外にある高級ホテルデデマンに寄り、昨日見た日本人カップルを乗せて今度こそ出発。ツアー参加は日本人5人、フランス人2人、オランダ人2人であった。OL二人には何となく話しかけたくなかったが、話さないのも変なので結局話しかけることにした。それでも、海外旅行がもう5、6回だとか聞くと当世風OLかと思い反感を感じたが、もっと話してみると余りまともでもなく、安心した。残りのカップルは夫婦で、遅ればせながらの新婚旅行とのこと。旦那の方がスケッチがうまくて楽しませられ、また感心させられた。
 カッパドキアは火山灰地で、年代によって地質の堅いものや柔らかいものに分かれ、固まった岩が侵食を受け易いものと受け難いものになっているため、不思議な形をした岩を作り出し、独特の風景となっている。そうしたきのこ岩や鳥岩、×××岩などを見てまわる。ギョレメでは岩山をくり貫いた住居の中の陶房を訪れた。ここでは女性の髪の毛のコレクションがあり、一緒のツアーの女性はここで髪を少し切られた。このあたりではホテルも同様の構造をしているらしい。昼食は割合高級そうなレストランで食べさせられた。ここでツアーの連れの人と話したが、フランス人のおばさんたちは英語がほとんど分からず意志の疎通が余りできなかった。もっともトルコ人も英語よりはドイツ語やフランス語の方がまだわかるようだ。こういうところにもヨーロッパを感じる。その後、オープンエアミュージアムに行く。ここは、1世紀程前までキリスト教徒が住んでいたところだそうで、岩山をくり貫いて街ができている。昨日の雪で雪だるまが作られていたのがほほえましい。ここでは、他のツアーグループのガイド(トルコ人と)とうちのツアーのオランダ人のおじさんが衝突して少し怖かった。怒っている西洋人の青い目の冷酷に見えること!例の中指をたてる侮辱のしぐさも初めて真剣にやっているところを見た。でも、このおじさんにしてもいつもは陽気でやさしいのだが。二人で、ふざけて写真をとったりもしたし。最後にオニックスの工場に連れて行かれツアーは終わった。残念ながら曇っていて、有名な日没風景は見れなかった。

パムッカレへ
 その後どうしようか決めていなかったのだが、OL二人連れからパムッカレへ行くバスがあると聞き、同行するのもいやだと思いながらなし崩しになってしまった。  夕方になりバスがやってきて、夜の闇を駆け抜けていく。バスの横に座っていたおじさんは先生だそうで、僕が乗ってずーっと寝ていたのに、僕が寝ようとする頃に起き出して話しかけてきた。英語はダメなので、持っていたトルコ語の本を使って少し意志を交わした。このとき重大なことが判明した。そのバスはパムッカレへ直接行くのではなく、デニズリというところで乗り換える必要があると言うのだ。知らなければそのままイズミールまで行ってしまったであろう。この先生に感謝。
 目が覚めるとそこはデニズリであった。あわてて最前列で寝ているOL二人を起こす。彼女達は何も知らない。お互い様だがよい度胸だと思う。
 ターミナルの窓口に行くとチケットの有効地点について若干やりとりがあったが、パムッカレまでだと説明するとミニバスのチケットを渡してくれた。このチケットをもって、ミニバスでパムッカレへと向かう。バスは丘の上まで上がらず、下のおみやげ物屋や宿の集まっているところで降ろされる。客引きの激しさに悩まされながら、丘を目指す。石灰岩地の下まで行き着き、ルートを探しながら登っていく。今日は朝からハードだ。最後の上の道路に出るところが切り立っていて女性は無理かなと思ったが、さすがに強い。なんとか登りきるとようやくそこは写真でみるような石灰岩台地と水たまりになっていた。
 しばらく眺めてOL二人とそこで分かれ、裏手にあるローマの円形劇場に行く。ローマ時代の遺跡は初めてなので非常に興味深い。しばらくぼーっとした後走り始めていたミニバスを止め、デニズリへと戻る。次はエフェスへと向かうことにして乗車券を買い求めた。少し時間があるので朝食を食べることにして、バスターミナルを歩いているとまたも人に声をかけられる。朝食を食べられるところを探していると言うとパスタ屋(トルコ式クッキーらしい)へ連れて行ってくれた。彼は警官だそうで身分証明書も見せてくれた。彼の話によるとソウルオリンピックの重量挙げ金メダリストのスレイマノグルもデニズリに住んでいるのだそうだ。店にはハッジ(メッカに巡礼した人の尊称)もいてなごやかな雰囲気であった。しかし、バスの時間は迫ってきている。名残惜しいが、わかれを告げ、エフェス(トルコ名はセルチュク)へと向かう。

エフェスにて
 セルチュクでバスを降りるとトルコ人が近づいてきた。バス会社のエージェントだと言う。夜に出るイスタンブール行きのバスについて尋ねていると「塩多さん」と呼ぶ声がする。驚いて振り返ると例のOL二人連れが目の前に止まったバスから降りてきた。いつの間に追い抜いたのだろうか。
 3人でそのトルコ人の事務所へ行き、イスタンブール行きのバスを予約し、また荷物まで預かってもらって見物へと出かけた。エフェスは地中海岸最大のローマ遺跡で有名な街であった。使徒パウロが演説をしたというので有名な円形劇場などがある。まずは聖ヨハネ教会跡へ行く。丘の上に遺跡が広がっており、街が見晴らせる。あまり人がいない静かな場所でよい雰囲気だった。ここの遺跡はパムッカレのものより良く復元されているようだ。
 考古博物館へ向かう途中道を歩いているトルコ人のおばさんに頼んで写真に一緒に写ってもらう。おばさんはイズミールから来たのだそうだ。その後の道すがらOLの片方に怒りを覚える出来事があった。途中で子どもの写真(確かにトルコの子どもはかわいい)を勝手に撮ろうとして、近くにいた母親の怒りを買っていたのだ。写真とってもいいかぐらい身ぶりで伝えても良いのに、無遠慮にレンズを向けるんだから。
 考古博物館は非常に内容が多かった。ギリシャ、ローマ時代の発掘物が並んでいる。見ていくと疲れるくらいだ。アルテミス像はいまいち不気味な気がした。
 さて、いよいよエフェスのローマ遺跡だ。遺跡は現在の街の中心から3km程離れている。散歩がてらぶらぶらと行くことにする。並木がきれいで、てくてく歩いていると突然1台の車が止まり遺跡に行くのなら乗せて行ってあげるという。これはありがたいと乗せてもらって着くと、友人がそこでみやげ物屋をやっていて頼めば案内もしてくれると(例によって)言う。ところがOL二人は降りるとなにも言わずに遺跡の入り口に向かって歩き出す。一瞬あっけにとられたものの店の人に言い訳して彼女達を追いかける。どうも彼女らはそうやって何度も店にトラップされて懲りたらしい。しかし、もうちょっとやり方はあるのではないかと思ってしまった。僕がそういう時間のつぶし方が気にならないから言えるのかも知れないが、郷にいれば郷に従えと言うではないか、時間の流れ方は場所によって違うのだ。
 エフェスの遺跡はさすがに大きい、そして良く復元されている。ぶらぶら見て歩くだけでも結構時間がつぶれる。図書館跡、総督邸宅、公衆トイレ等々。最後に円形劇場の最上部でしばらくぼーっとしていた。すると各国の旅行者が中心の舞台でのど自慢をしてくれるので面白かった。日本人のおばさんは結構美声であった。この円形劇場の音響効果は驚く程良い。日が傾いて行き、街へ戻る頃となった。タクシーに乗って街へ。
 夕食を食べに行こうと言う話になって、歩き方に載っている店に行こうとしたら、例によって声をかけられた。その店は遠いからそこの店はどうだと言われついていくと隣が絨毯屋で、また例によってお茶を飲んでいけという。あきらめてついて行き、僕は絨毯の相場やトルコの生活など雑談をしていたのだが、彼女らは絨毯を売りつけられようとしていたようで、そろそろ夕食へということにして解放してもらった。
 横のレストランでは、店の主人が日本人は魚が好きだから羊と同じくらいにまけてあげるよと言い、その言葉に甘えて魚料理にしたらこれがうまかった。会計の時にチップを含めるのを忘れ、すぐに気がついてしまったと思ったものの後のまつり、習慣の違いにはなかなか慣れない。
 ターミナルに戻るとエージェントのおじさんがチャイを取り寄せてくれ、しばし歓談。そのうち、このおじさんが僕より年下だと判明してびっくり。なんせ、40位かと思っていたので。彼は、もっと内陸部に住んでいて、夏のシーズンだけ妻子をおいて出稼ぎに来るのだそうだ。

再びイスタンブールへ
 時間に遅れてバスがくる。イズミール行きだ。イズミールで乗り換えてイスタンブールへと向かう。この間、山下さん(髪の長い方)と長々とおしゃべりをしていた。そのうち、お互いの素性に話が及び、こちらの会社を聞かれ、やはり聞き返すのが礼儀だなと思って聞くと「竹中工務店」。「僕、竹中には知り合いがいるわ、たぶん設計部だと思うけど」「私たち設計部です」「えっ! 野田さんという人知ってます?」「知ってます」「!!...」なんと持久走の先輩の同僚であった。世の中本当にせまい。
 イスタンブールのトプカプターミナルで中村、山下両女史と別れる。彼女らはブルーモスクに余り近寄りたくないとのことである。何でも近くに事務所を構えているトルコ人と仲良くなりすぎて、行けば世話をしてくれるのだが夜を誘われそうで怖いとのことだった。女性はいろいろと心配する必要があって大変だとのんきに考えていたが、実際気をつける必要があるのだった。
 バスターミナルからローマ時代の城壁のあたりを歩く。城壁のあたりでは羊飼いが羊を連れて散歩していたり、のどかな雰囲気である。イスタンブールは本当に古い街だ。

イスタンブールの日本人
 バスでブルーモスクのあたりに戻ることにする。バスに乗ると好奇の目。日本人はまだ珍しいのだ。横に座ったトルコ人の若い男が話しかけてくる。彼の兄弟の妻が日本人だとのこと。ホテルは決めているのかと聞くので、決めているが予約はしていないと答えると良いホテルがあるのでついてこいと言う。こういう場合、本当に親切なのか、だまそうとしているのか判断に苦しむ。しかし、ついていくことにする。あるビルのカフェで朝食を食べるのをつきあい、そのビルの事務所に連れて行かれた。彼女(仁田原康子さん)はまさに日本人でフリーライターをしているとのことであった。略歴を少し話してくれたが、良く分からない経歴でトルコにきて、トルコ人と結婚したらしい。彼女の所には多くのトルコ人や日本人が出入りしていて一種相談所のようである。

イスタンブール観光
 ここに連れてきてくれた青年(トゥルグット)が街の案内をしてくれるというのでついていく。まず最初はガラタタワーへ。ここからはイスタンブール市街が良く見える。ガラタタワーは初めて人が翼を使って飛んだ場所として有名とのこと、全然知らなかった。見物ののち彼の従兄弟がやっているというみやげ物屋による。トルコ人の相手をすると必ずこういうことが起こる。時に仲介料目当てかと疑いたくなる。そこにはあまりいいものはなかったがトルゥグットの顔を立てるためにスプーンを買って出る。ちょうど小さな女の子たちが通っていたので写真を撮らせてもらう。スパイスバザールを通って康子の事務所に戻り、また後で訪ねることを約束してトプカプ宮殿へ向かう。
 トプカプ宮殿は歴代のスルタンが住んだ居城で、なかなか豪華にはできている。しかし、やたらひかりものが多く、どこか子供の趣味のような気がした。わびさびの文化を誇る日本としてはどこかいただけないものがある。しかし、陶磁器のコレクションにしろ、宝飾類にしろ、さすがに世界に覇をとなえたオスマントルコである、見ても見ても見尽くせない感じであった。疲れてふらふらと歩いているとまた中村、山下両女史に会ってしまった。二人は、下町の方のホテルに宿をとったのだそうだった。二人からハーレムは予約制のツアーになっていることを聞き、予約に赴く。ハーレムに関してはそれほどの感銘は受けなかった。ハーレムを出て、また収蔵品を見ていたが、見きれないうちに閉館時間となってしまった。約束通り康子のオフィスへと向かう。康子のオフィスは名目上、夫のセラハッティンの絨毯屋となっており、割合良い品が置いている。絨毯の話しをしているうちに見せてもらうこととなり、見ていると欲しくなるという悪い癖が出て、結局買うことになってしまった。絨毯選びはとても楽しい。一枚一枚広げて逆から見たり肌触りを確かめたり、模様のバランスを吟味したり。結局1枚はミラスの明るい色合いを、残り2枚は暖かな色合いのカルスのものにして、船便で送ってもらうことにした(この旅行ではカードのお世話になりっぱなし)。

ベリーダンス
 そのまま話しをしているうちにベリーダンスを見たいと言うと、セラハッティンが電話でレストランを予約してくれた。第一ボスポラス橋の向こうにある、トルコ人向けのレストランとのこと。タクシーを呼んでもらい、海峡沿いの道をドライブして店へ到着。適当にコース料理を頼み、ラクを傾けつつ歌やベリーダンスを満喫した。セットで40000リラというのはかなり安いディナーショーのようだ。最初は客もあまりいなかったが、夜が更けていくにつれ、込みはじめてきた。ベリーダンスは腹を出した格好で腰を振る扇情的な踊りだと思っていたが、実際には指の動きが非常に官能的であった。12時を過ぎ、さすがに眠くなってきたのでタクシーを呼んでもらい退散した。

ドルマバッチェ宮殿
 今日でトルコ旅行は終わりだ。顔を洗おうと蛇口をひねるが水が出ない。フロントに文句を言うと「Just now, it's coming」。しかし、戻って開けてもまだ出ない、何度かその対応を繰り返し、しまいに掃除に来たおじさんに言ったら、やっと出て一安心。このあたりの感覚はイスラームかなと思う。まさにインシャラーの世界である(神の思し召しのままに)。
 今日もトゥルグットが案内してくれると言うのでロビーで彼を待って、ドルマバッチェ宮殿へ。ドルマバッチェ宮殿は荘厳、華麗かつ優美である。やはり、金の装飾を多用しているのだが、トプカプ宮殿とはうって変わって、とても洗練され、文化の成熟度を示しているようだ。調度品や展示物もとても高価そうであり、監視をかねてのガイドがついて自由行動はできないようになっている。ガイドは、英、独、仏、土の言語別にグループを分けて案内する。英語のグループには僕以外にも日本人の女の子がいて、トゥルグットはその子らに声をかけろとけしかける。トルコの男達は(相手が日本人だからか)積極的でずっと優しく、外見も西洋人と変わらない者が多いので日本人の女の子が面白いように引っかかるらしい。トルコ人と知り合って話しをすると(ここでは当然トルコの男、女性は外国男性と話すわけがない)皆日本の女の子が好きだと言うが、一つには簡単に引っかかるからだと言う印象を受けた。日本人の女の子についてはよい噂だけではなく、あからさまにビッチと罵る例もあった。女の子だけでなく日本人についても評価が下がってきているようだった。それも当然という気もする。外国だからとかなり気ままに振る舞っている例も見かけたし。

再び康子
 昼過ぎまでドルマバッチェ宮殿を見学した後、康子のオフィスの近くに戻り、ロカンタで食事をした。ここはかなり安く、また味も良かった。
 その後、みやげ物屋に入ってティーセットを買い求めた。これは例の真鍮製の金ぴかのお盆に薄いグラスがついているものだ。グラスが余りに薄くて割れそうなのでしきりに心配していると、店の主人がお守りだと言って目玉を型どったものを入れてくれた。これをいれておけば大丈夫とさも自信ありげなのだがそんなに効力あるのかしら。
 店を出たところでばったりと康子達にあう。今日は絨毯の買い付けに行くと言うので会えないと言っていたのだが、ちょうど帰ってきたところのようだ。またオフィスに入り、買ってきたヘレケの絨毯(これは緑色を織り込んだ珍しい色合いだった)を見せてもらった上、トルココーヒーを飲ましてもらった。セラハッティンのお母さんと妹さんはいかにもトルコ人という感じで人が良さそうであった。
 まだ有名なグランドバザールに行ってなかったので見物に出かけた。中東一と言うだけあり本当に広い。迷子になってしまいそうだった。ここでさっきの店で入れてもらった目玉のお守りを買い、記念撮影をした後、ユーノスの兄さんの店で食べさせてもらったお菓子をお土産にしようとトゥルグットに説明して買いに行く。キログラム単位でしか売ってないと言うので重い土産(しかし、このおみやげは不評だった)となった。

さよならトルコ
 いよいよトゥルグットとお別れだ。トルコ人式に頬を寄せあって別れの挨拶をする。とても寂しい気持ちになり悲しかった。でも、このときトルゥグットが見知らぬ人間に声をかけられてもついて行っちゃダメだよと僕を諭すのを聞いて少しおかしくなった。
サドゥックに別れの挨拶をするために彼の店へ行く。ちょうど案内をしているということで彼は不在だったが、例のおじさんと従兄弟のハミット、友人のメフメットがいて、トルコ語や日本語をお互いに教えあったり、ダンスを教えてもらったりして楽しい時間を過ごせた。ハミットは日本語の勉強をしており少し話せ、メフメットは日本史を勉強しているとのことで戦国時代のエピソード(信玄と謙信の川中島の逸話)を話してくれたのにはびっくりしてしまった。
 やがて夕食の時間が迫り彼らも家へと帰っていく。トルコ式に頬を寄せ、別れを告げる。また悲しくなる。
 サドゥックがなかなか戻らないのでどうしようかと考えていると彼が戻ってきた。僕のかぶっていた帽子を記念にもらってもらい、別れを告げる。
 おじさんが送ってくれるというのでその言葉に甘える。夕闇の中を空港へ向けて車は走る。寂しさと悲しみがこみ上げてくる。別れ際、おじさんにすべてはあなたとの出会いから始まったとお礼を言う。頬を寄せあい、さよなら。ほとんど泣きそうになった。
 出発まで3時間、寂しさに耐えられず、売店でトルコのミュージックテープを買い求め気を紛らせる。  真夜中のロビーに搭乗案内が響く。搭乗口へと向かう。トルコ旅行が終わった。