アタチュルク廟
今日は有名な観光地カッパドキアへ向かう。その前に時間がありそうなのでアタチュルク廟へぜひとも行こうと考えた。そもそもトルコに来たのがアタチュルクを偲ぶためみたいなのだから。さて、まずは腹ごしらえ。ロビーの片隅でおなじみとなった朝食の組み合わせ(パン、蜂密またはジャム、チーズ、オリーブと紅茶)を平らげる。このシンプルなのがとてもおいしい。
とりあえずバスターミナルへ向かいチケットを購入する。2時間ほどの余裕を見てアタチュルク廟へ。アンカラ大学の周りで少し迷ったが、警察官に聞いて無事たどり着く。アタチュルク廟は軍の管轄になっていて、荷物も守衛所へ預けなくてはならない。歩いていくと壮大なモニュメントが見える。人は少ないがかえって雰囲気がよい。正面にアタチュルクの遺体を納めた大理石の棺が荘厳な建物の中に安置されている。それに対応するように、ちょうど背面にはアタチュルクの副官であり、忠実な友であったイノニュの棺が正対している。おそらくイノニュは自ら願ってこの位置を確保したのだろう。幸せな人だ。
このアタチュルク廟でこれまでに知らなかったいくつかの事実を知った。養女がいてパイロットになってたこと、皇室との交流もあったこと。時間が過ぎるのを忘れそうになるくらいに浸っていたが、バスの時間が迫ってき、やむなく去ることとした。
カッパドキアへ
カッパドキアの中心都市、ネヴシェヒールへは4時間ほど。隣には青年が座っていて、タバコを勧められたのがきっかけでお互い下手な英語で会話を試みた。名は、メフメット=クラクと言い、電気技師をしているとのことで、同じ技術者同士で話が盛り上がった。彼とはトルコのこと日本のことを飽きること無く話した。風土、習慣、歴史。途中、休憩のドライブインではチャイをおごってもらったりしながら、本当に楽しい時間を過ごせた。ネヴシェヒールに着いてそのまま別れたのが少し残念だった。
バスを降りるとそこが悪名高きチューリップインフォーメーションの事務所で、そのまま客引きにつかまって入ってしまった。入ると既に日本人のカップルがいて、明日のカッパドキアツアーに行くらしい。アンカラでもらったチラシを見せるとそれは以前の価格で今はもっとするという。この野郎と思ったものの、交渉をする気にもなれず、いいやと思って申し込んだ。泊まるところはあるのかと聞かれ、無いと言うと紹介してやろうと言う。又巻き上げるつもりかと思うと、こちらの気持ちを見すかしたように別に僕らは手数料をとっていない、自分で探してくれてもいいと言う。まあいいやと思ってホテルもとってもらった。
やがてホテルからの迎えがきて、車に乗ると彼らは僕の帽子がいたく気に入ったようで、しばらく帽子を交換した。そういえば、イスタンブールでもよく帽子をほめられた。何ということはない、登山用のレインハットなのだが。
ネヴシェヒールの街にて
ホテルの部屋はアンカラより安くて格段によい。さすがに地方は物価が安い。カーテンをあけると丘の上に城が見える。別にすることもないので行くことにする。外に出ると雪が降ってきた。狭い路地を右に左に曲がりながら城をめざす。帰りはたぶん迷うだろうと思いながら歩いていると向こうからやってきた若いトルコ人が英語で話しかけてきた。「日本人か?城に行くのか?それならそこのミナレットを曲がって後は一本道だから迷うことはないよ。僕には日本人のペンパルがいるんだ、じゃあ気をつけて。」こうしたちょっとした出会いが僕は好きなのだ。彼と握手をして別れ、城へ向かう。途中夕食の支度をしているのか、おばさんが外の水道で野菜を洗っていた。僕を見ると驚いた様子で目を丸くしていた。日本人がここまで入ってくることはそうないだろうと思いながら、会釈すると、にこっと笑い返してくれた。
城は荒れ果ててたいしたものではなかったけれど、そのうらさぶれたところが風情があって良い。城のすぐ下まで家が迫って、城壁を歩いていると家の屋根を歩いているようだった。さっきの道を戻ると洗い物をしていたおばさんがドアから顔を出して様子をうかがっていたので会釈するとにっこりとした。やっぱり珍しいのだろう。
帰り、やはり迷ったけれどそう大きな街ではないのですぐにホテルに出た。そのまま街を散歩することにする。本当に小さな街だ。チャイ屋さんでお茶を飲み、みやげ物屋さんで絵はがきを買い、ふらふらと時間をつぶした。夕方になったのでそのまま食事に出かけることにする。うろうろした挙げ句、場末の定食屋と言った感じの店に入り、ビールを頼むとおいていない。仕方がないのでアイラン(ヨーグルトの水割り)と何品か頼み腹いっぱい、それも信じられないくらい安い値段で食べた。やはり、地方はいい、またそう思いながらホテルに戻り、熱いシャワーを浴びて寝た。
カッパドキアの奇岩
朝起きてまた手紙を書く。旅行に出ると日頃のご無沙汰を詫びる意味もあってひたすら手紙を書く。元々手紙は書くのももらうのも好きなのに、時間がなくて書けなくなってきている。年をとってきているということでもあるのだろう。
朝ご飯は例によってパンとチーズとオリーブとお茶。でも、どこに行ってもパンはおいしい。さすが食糧自給率100%。
郵便局に寄ってエアメールを出そうと思い、迎えに来てくれると言われていたが散歩がてら事務所まで行くことにする。事務所に着くと彼らは飯を食べている最中。言い訳しようとするとノープロブレム。トルコでいちばん聞く英語がこれだ。
やがて、バンが来て出発。乗り込もうとすると中にはすでにOL風の日本人二人連れがいる。なんかいやだなと思ったがしかたない。途中、郊外にある高級ホテルデデマンに寄り、昨日見た日本人カップルを乗せて今度こそ出発。ツアー参加は日本人5人、フランス人2人、オランダ人2人であった。OL二人には何となく話しかけたくなかったが、話さないのも変なので結局話しかけることにした。それでも、海外旅行がもう5、6回だとか聞くと当世風OLかと思い反感を感じたが、もっと話してみると余りまともでもなく、安心した。残りのカップルは夫婦で、遅ればせながらの新婚旅行とのこと。旦那の方がスケッチがうまくて楽しませられ、また感心させられた。
カッパドキアは火山灰地で、年代によって地質の堅いものや柔らかいものに分かれ、固まった岩が侵食を受け易いものと受け難いものになっているため、不思議な形をした岩を作り出し、独特の風景となっている。そうしたきのこ岩や鳥岩、×××岩などを見てまわる。ギョレメでは岩山をくり貫いた住居の中の陶房を訪れた。ここでは女性の髪の毛のコレクションがあり、一緒のツアーの女性はここで髪を少し切られた。このあたりではホテルも同様の構造をしているらしい。昼食は割合高級そうなレストランで食べさせられた。ここでツアーの連れの人と話したが、フランス人のおばさんたちは英語がほとんど分からず意志の疎通が余りできなかった。もっともトルコ人も英語よりはドイツ語やフランス語の方がまだわかるようだ。こういうところにもヨーロッパを感じる。その後、オープンエアミュージアムに行く。ここは、1世紀程前までキリスト教徒が住んでいたところだそうで、岩山をくり貫いて街ができている。昨日の雪で雪だるまが作られていたのがほほえましい。ここでは、他のツアーグループのガイド(トルコ人と)とうちのツアーのオランダ人のおじさんが衝突して少し怖かった。怒っている西洋人の青い目の冷酷に見えること!例の中指をたてる侮辱のしぐさも初めて真剣にやっているところを見た。でも、このおじさんにしてもいつもは陽気でやさしいのだが。二人で、ふざけて写真をとったりもしたし。最後にオニックスの工場に連れて行かれツアーは終わった。残念ながら曇っていて、有名な日没風景は見れなかった。
パムッカレへ
その後どうしようか決めていなかったのだが、OL二人連れからパムッカレへ行くバスがあると聞き、同行するのもいやだと思いながらなし崩しになってしまった。
夕方になりバスがやってきて、夜の闇を駆け抜けていく。バスの横に座っていたおじさんは先生だそうで、僕が乗ってずーっと寝ていたのに、僕が寝ようとする頃に起き出して話しかけてきた。英語はダメなので、持っていたトルコ語の本を使って少し意志を交わした。このとき重大なことが判明した。そのバスはパムッカレへ直接行くのではなく、デニズリというところで乗り換える必要があると言うのだ。知らなければそのままイズミールまで行ってしまったであろう。この先生に感謝。
目が覚めるとそこはデニズリであった。あわてて最前列で寝ているOL二人を起こす。彼女達は何も知らない。お互い様だがよい度胸だと思う。
ターミナルの窓口に行くとチケットの有効地点について若干やりとりがあったが、パムッカレまでだと説明するとミニバスのチケットを渡してくれた。このチケットをもって、ミニバスでパムッカレへと向かう。バスは丘の上まで上がらず、下のおみやげ物屋や宿の集まっているところで降ろされる。客引きの激しさに悩まされながら、丘を目指す。石灰岩地の下まで行き着き、ルートを探しながら登っていく。今日は朝からハードだ。最後の上の道路に出るところが切り立っていて女性は無理かなと思ったが、さすがに強い。なんとか登りきるとようやくそこは写真でみるような石灰岩台地と水たまりになっていた。
しばらく眺めてOL二人とそこで分かれ、裏手にあるローマの円形劇場に行く。ローマ時代の遺跡は初めてなので非常に興味深い。しばらくぼーっとした後走り始めていたミニバスを止め、デニズリへと戻る。次はエフェスへと向かうことにして乗車券を買い求めた。少し時間があるので朝食を食べることにして、バスターミナルを歩いているとまたも人に声をかけられる。朝食を食べられるところを探していると言うとパスタ屋(トルコ式クッキーらしい)へ連れて行ってくれた。彼は警官だそうで身分証明書も見せてくれた。彼の話によるとソウルオリンピックの重量挙げ金メダリストのスレイマノグルもデニズリに住んでいるのだそうだ。店にはハッジ(メッカに巡礼した人の尊称)もいてなごやかな雰囲気であった。しかし、バスの時間は迫ってきている。名残惜しいが、わかれを告げ、エフェス(トルコ名はセルチュク)へと向かう。
エフェスにて
セルチュクでバスを降りるとトルコ人が近づいてきた。バス会社のエージェントだと言う。夜に出るイスタンブール行きのバスについて尋ねていると「塩多さん」と呼ぶ声がする。驚いて振り返ると例のOL二人連れが目の前に止まったバスから降りてきた。いつの間に追い抜いたのだろうか。
3人でそのトルコ人の事務所へ行き、イスタンブール行きのバスを予約し、また荷物まで預かってもらって見物へと出かけた。エフェスは地中海岸最大のローマ遺跡で有名な街であった。使徒パウロが演説をしたというので有名な円形劇場などがある。まずは聖ヨハネ教会跡へ行く。丘の上に遺跡が広がっており、街が見晴らせる。あまり人がいない静かな場所でよい雰囲気だった。ここの遺跡はパムッカレのものより良く復元されているようだ。
考古博物館へ向かう途中道を歩いているトルコ人のおばさんに頼んで写真に一緒に写ってもらう。おばさんはイズミールから来たのだそうだ。その後の道すがらOLの片方に怒りを覚える出来事があった。途中で子どもの写真(確かにトルコの子どもはかわいい)を勝手に撮ろうとして、近くにいた母親の怒りを買っていたのだ。写真とってもいいかぐらい身ぶりで伝えても良いのに、無遠慮にレンズを向けるんだから。
考古博物館は非常に内容が多かった。ギリシャ、ローマ時代の発掘物が並んでいる。見ていくと疲れるくらいだ。アルテミス像はいまいち不気味な気がした。
さて、いよいよエフェスのローマ遺跡だ。遺跡は現在の街の中心から3km程離れている。散歩がてらぶらぶらと行くことにする。並木がきれいで、てくてく歩いていると突然1台の車が止まり遺跡に行くのなら乗せて行ってあげるという。これはありがたいと乗せてもらって着くと、友人がそこでみやげ物屋をやっていて頼めば案内もしてくれると(例によって)言う。ところがOL二人は降りるとなにも言わずに遺跡の入り口に向かって歩き出す。一瞬あっけにとられたものの店の人に言い訳して彼女達を追いかける。どうも彼女らはそうやって何度も店にトラップされて懲りたらしい。しかし、もうちょっとやり方はあるのではないかと思ってしまった。僕がそういう時間のつぶし方が気にならないから言えるのかも知れないが、郷にいれば郷に従えと言うではないか、時間の流れ方は場所によって違うのだ。
エフェスの遺跡はさすがに大きい、そして良く復元されている。ぶらぶら見て歩くだけでも結構時間がつぶれる。図書館跡、総督邸宅、公衆トイレ等々。最後に円形劇場の最上部でしばらくぼーっとしていた。すると各国の旅行者が中心の舞台でのど自慢をしてくれるので面白かった。日本人のおばさんは結構美声であった。この円形劇場の音響効果は驚く程良い。日が傾いて行き、街へ戻る頃となった。タクシーに乗って街へ。
夕食を食べに行こうと言う話になって、歩き方に載っている店に行こうとしたら、例によって声をかけられた。その店は遠いからそこの店はどうだと言われついていくと隣が絨毯屋で、また例によってお茶を飲んでいけという。あきらめてついて行き、僕は絨毯の相場やトルコの生活など雑談をしていたのだが、彼女らは絨毯を売りつけられようとしていたようで、そろそろ夕食へということにして解放してもらった。
横のレストランでは、店の主人が日本人は魚が好きだから羊と同じくらいにまけてあげるよと言い、その言葉に甘えて魚料理にしたらこれがうまかった。会計の時にチップを含めるのを忘れ、すぐに気がついてしまったと思ったものの後のまつり、習慣の違いにはなかなか慣れない。
ターミナルに戻るとエージェントのおじさんがチャイを取り寄せてくれ、しばし歓談。そのうち、このおじさんが僕より年下だと判明してびっくり。なんせ、40位かと思っていたので。彼は、もっと内陸部に住んでいて、夏のシーズンだけ妻子をおいて出稼ぎに来るのだそうだ。
再びイスタンブールへ
時間に遅れてバスがくる。イズミール行きだ。イズミールで乗り換えてイスタンブールへと向かう。この間、山下さん(髪の長い方)と長々とおしゃべりをしていた。そのうち、お互いの素性に話が及び、こちらの会社を聞かれ、やはり聞き返すのが礼儀だなと思って聞くと「竹中工務店」。「僕、竹中には知り合いがいるわ、たぶん設計部だと思うけど」「私たち設計部です」「えっ! 野田さんという人知ってます?」「知ってます」「!!...」なんと持久走の先輩の同僚であった。世の中本当にせまい。
イスタンブールのトプカプターミナルで中村、山下両女史と別れる。彼女らはブルーモスクに余り近寄りたくないとのことである。何でも近くに事務所を構えているトルコ人と仲良くなりすぎて、行けば世話をしてくれるのだが夜を誘われそうで怖いとのことだった。女性はいろいろと心配する必要があって大変だとのんきに考えていたが、実際気をつける必要があるのだった。
バスターミナルからローマ時代の城壁のあたりを歩く。城壁のあたりでは羊飼いが羊を連れて散歩していたり、のどかな雰囲気である。イスタンブールは本当に古い街だ。
イスタンブールの日本人
バスでブルーモスクのあたりに戻ることにする。バスに乗ると好奇の目。日本人はまだ珍しいのだ。横に座ったトルコ人の若い男が話しかけてくる。彼の兄弟の妻が日本人だとのこと。ホテルは決めているのかと聞くので、決めているが予約はしていないと答えると良いホテルがあるのでついてこいと言う。こういう場合、本当に親切なのか、だまそうとしているのか判断に苦しむ。しかし、ついていくことにする。あるビルのカフェで朝食を食べるのをつきあい、そのビルの事務所に連れて行かれた。彼女(仁田原康子さん)はまさに日本人でフリーライターをしているとのことであった。略歴を少し話してくれたが、良く分からない経歴でトルコにきて、トルコ人と結婚したらしい。彼女の所には多くのトルコ人や日本人が出入りしていて一種相談所のようである。
イスタンブール観光
ここに連れてきてくれた青年(トゥルグット)が街の案内をしてくれるというのでついていく。まず最初はガラタタワーへ。ここからはイスタンブール市街が良く見える。ガラタタワーは初めて人が翼を使って飛んだ場所として有名とのこと、全然知らなかった。見物ののち彼の従兄弟がやっているというみやげ物屋による。トルコ人の相手をすると必ずこういうことが起こる。時に仲介料目当てかと疑いたくなる。そこにはあまりいいものはなかったがトルゥグットの顔を立てるためにスプーンを買って出る。ちょうど小さな女の子たちが通っていたので写真を撮らせてもらう。スパイスバザールを通って康子の事務所に戻り、また後で訪ねることを約束してトプカプ宮殿へ向かう。
トプカプ宮殿は歴代のスルタンが住んだ居城で、なかなか豪華にはできている。しかし、やたらひかりものが多く、どこか子供の趣味のような気がした。わびさびの文化を誇る日本としてはどこかいただけないものがある。しかし、陶磁器のコレクションにしろ、宝飾類にしろ、さすがに世界に覇をとなえたオスマントルコである、見ても見ても見尽くせない感じであった。疲れてふらふらと歩いているとまた中村、山下両女史に会ってしまった。二人は、下町の方のホテルに宿をとったのだそうだった。二人からハーレムは予約制のツアーになっていることを聞き、予約に赴く。ハーレムに関してはそれほどの感銘は受けなかった。ハーレムを出て、また収蔵品を見ていたが、見きれないうちに閉館時間となってしまった。約束通り康子のオフィスへと向かう。康子のオフィスは名目上、夫のセラハッティンの絨毯屋となっており、割合良い品が置いている。絨毯の話しをしているうちに見せてもらうこととなり、見ていると欲しくなるという悪い癖が出て、結局買うことになってしまった。絨毯選びはとても楽しい。一枚一枚広げて逆から見たり肌触りを確かめたり、模様のバランスを吟味したり。結局1枚はミラスの明るい色合いを、残り2枚は暖かな色合いのカルスのものにして、船便で送ってもらうことにした(この旅行ではカードのお世話になりっぱなし)。
ベリーダンス
そのまま話しをしているうちにベリーダンスを見たいと言うと、セラハッティンが電話でレストランを予約してくれた。第一ボスポラス橋の向こうにある、トルコ人向けのレストランとのこと。タクシーを呼んでもらい、海峡沿いの道をドライブして店へ到着。適当にコース料理を頼み、ラクを傾けつつ歌やベリーダンスを満喫した。セットで40000リラというのはかなり安いディナーショーのようだ。最初は客もあまりいなかったが、夜が更けていくにつれ、込みはじめてきた。ベリーダンスは腹を出した格好で腰を振る扇情的な踊りだと思っていたが、実際には指の動きが非常に官能的であった。12時を過ぎ、さすがに眠くなってきたのでタクシーを呼んでもらい退散した。
ドルマバッチェ宮殿
今日でトルコ旅行は終わりだ。顔を洗おうと蛇口をひねるが水が出ない。フロントに文句を言うと「Just now, it's coming」。しかし、戻って開けてもまだ出ない、何度かその対応を繰り返し、しまいに掃除に来たおじさんに言ったら、やっと出て一安心。このあたりの感覚はイスラームかなと思う。まさにインシャラーの世界である(神の思し召しのままに)。
今日もトゥルグットが案内してくれると言うのでロビーで彼を待って、ドルマバッチェ宮殿へ。ドルマバッチェ宮殿は荘厳、華麗かつ優美である。やはり、金の装飾を多用しているのだが、トプカプ宮殿とはうって変わって、とても洗練され、文化の成熟度を示しているようだ。調度品や展示物もとても高価そうであり、監視をかねてのガイドがついて自由行動はできないようになっている。ガイドは、英、独、仏、土の言語別にグループを分けて案内する。英語のグループには僕以外にも日本人の女の子がいて、トゥルグットはその子らに声をかけろとけしかける。トルコの男達は(相手が日本人だからか)積極的でずっと優しく、外見も西洋人と変わらない者が多いので日本人の女の子が面白いように引っかかるらしい。トルコ人と知り合って話しをすると(ここでは当然トルコの男、女性は外国男性と話すわけがない)皆日本の女の子が好きだと言うが、一つには簡単に引っかかるからだと言う印象を受けた。日本人の女の子についてはよい噂だけではなく、あからさまにビッチと罵る例もあった。女の子だけでなく日本人についても評価が下がってきているようだった。それも当然という気もする。外国だからとかなり気ままに振る舞っている例も見かけたし。
再び康子
昼過ぎまでドルマバッチェ宮殿を見学した後、康子のオフィスの近くに戻り、ロカンタで食事をした。ここはかなり安く、また味も良かった。
その後、みやげ物屋に入ってティーセットを買い求めた。これは例の真鍮製の金ぴかのお盆に薄いグラスがついているものだ。グラスが余りに薄くて割れそうなのでしきりに心配していると、店の主人がお守りだと言って目玉を型どったものを入れてくれた。これをいれておけば大丈夫とさも自信ありげなのだがそんなに効力あるのかしら。
店を出たところでばったりと康子達にあう。今日は絨毯の買い付けに行くと言うので会えないと言っていたのだが、ちょうど帰ってきたところのようだ。またオフィスに入り、買ってきたヘレケの絨毯(これは緑色を織り込んだ珍しい色合いだった)を見せてもらった上、トルココーヒーを飲ましてもらった。セラハッティンのお母さんと妹さんはいかにもトルコ人という感じで人が良さそうであった。
まだ有名なグランドバザールに行ってなかったので見物に出かけた。中東一と言うだけあり本当に広い。迷子になってしまいそうだった。ここでさっきの店で入れてもらった目玉のお守りを買い、記念撮影をした後、ユーノスの兄さんの店で食べさせてもらったお菓子をお土産にしようとトゥルグットに説明して買いに行く。キログラム単位でしか売ってないと言うので重い土産(しかし、このおみやげは不評だった)となった。
さよならトルコ
いよいよトゥルグットとお別れだ。トルコ人式に頬を寄せあって別れの挨拶をする。とても寂しい気持ちになり悲しかった。でも、このときトルゥグットが見知らぬ人間に声をかけられてもついて行っちゃダメだよと僕を諭すのを聞いて少しおかしくなった。
サドゥックに別れの挨拶をするために彼の店へ行く。ちょうど案内をしているということで彼は不在だったが、例のおじさんと従兄弟のハミット、友人のメフメットがいて、トルコ語や日本語をお互いに教えあったり、ダンスを教えてもらったりして楽しい時間を過ごせた。ハミットは日本語の勉強をしており少し話せ、メフメットは日本史を勉強しているとのことで戦国時代のエピソード(信玄と謙信の川中島の逸話)を話してくれたのにはびっくりしてしまった。
やがて夕食の時間が迫り彼らも家へと帰っていく。トルコ式に頬を寄せ、別れを告げる。また悲しくなる。
サドゥックがなかなか戻らないのでどうしようかと考えていると彼が戻ってきた。僕のかぶっていた帽子を記念にもらってもらい、別れを告げる。
おじさんが送ってくれるというのでその言葉に甘える。夕闇の中を空港へ向けて車は走る。寂しさと悲しみがこみ上げてくる。別れ際、おじさんにすべてはあなたとの出会いから始まったとお礼を言う。頬を寄せあい、さよなら。ほとんど泣きそうになった。
出発まで3時間、寂しさに耐えられず、売店でトルコのミュージックテープを買い求め気を紛らせる。
真夜中のロビーに搭乗案内が響く。搭乗口へと向かう。トルコ旅行が終わった。