変わりゆくサイゴン
 これまでホーチミン市のことをサイゴンと頑なに呼び続けていました。それは現地でそう呼んでいるからでした。ホー・チ・ミンというのは言わずと知れたベトナム独立の指導者、初代ベトナム社会主義共和国大統領のホーおじさんのことです。だからベトナム人はホーチミン市のことを決して呼び捨てにしないし、南部の人間は特にあまりホーチミンとは言いません。北部の人間にとっては大事な名前で、南部の人間にとってはサイゴン陥落後の共産党政権下の抑圧体制の象徴となっているからです(単に長くて呼びにくいとの話もありますが)。
 ホーチミン市は昔のサイゴン、ザーディン、チョロンを合わせた地区とその周辺から成り立っています。だから今でもホーチミン市の中心をサイゴンと呼ぶのは自然なことなのでしょう、そういう風に思っていました。
 ところがこのところ、ベトナムでもホー・チ・ミンと呼び捨てにする場合を数多く見るようになりました。ベトナム戦争後、20年以上が過ぎ、当のホー・チ・ミンの記憶も薄れてきたのでしょうか?サイゴンは変化の激しい街です。この3年ほど半年ごとに訪れていますが、訪れる度に大きく変化しています。街並みも人々の暮らしも。知り合いのシクロ運転手は、今度新たに家を買って引っ越しをすると言っていました。才覚のある人はどんどん金をもうけ、豊かになっていく。サイゴンっ子は市場経済に巧みに適応しているようです。貧富の格差も広がっているのだろうけど、REX前の公園ではとんと物乞いの子供達を見なくなりました。ココナッツ娘達もずいぶん少なくなっています。彼らも豊かさの恩恵にあずかっているのでしょうか?
 この正月に旅行に行くと人民委員会前のレロイ通りに面していつの間にかデューティーフリーができていました('98.1)。グエンフエ通りに面してシティバンクの大きなビジネスセンターができているし、市民劇場前のカラベルホテルも外装ができていて、そのうち開業するでしょう。
 しかし、あんなにホテルを作ってどうするんだろう?そんなに観光客が来ると思っているのだろうか?どこか勘違いをしているような気がします。いったいデューティーフリー目当てでベトナムに行く人間がいるのかしら?なんか日本人観光客を当て込んでいるような。東南アジアの通貨危機の影響はそれほど感じなかったけれど、やはり景気は落ちているようです。ドンの切り下げもいずれはあるでしょう。
 と書いてから、また1年後にサイゴンへと行って来ました(99.1)。ドンの切り下げはそんなに大きくないようですが(1$=13850d、\100=11700d)、ホテルなどの外国人料金がえらく下がっていました。ボン・センやバック・ダンなどの中級ホテルのシングルルームが$30、スーペリアで$35、デラックスで$40でした。高級ホテルでも$50くらいで泊まれるようです。
 サイゴンはどんどん変わっていく、でもそれはやっぱり見かけだけでベトナムはベトナムで中身は変わっていない、そんな気がした旅行でした。

南進は続く〜4/30
 ベトナムの歴史は継続的な南進の繰り返しでした。北部からどんどん人が南へ移住し、チャムやクメールの人々が住んでいた土地を時には奪い取り、同化し、南へ南へとやってきました。だから、南の人の方が顔の作りも多様で、性格的に開放的な気がします。言葉も北に比べて柔らかく、声調の区別も曖昧になったりもします。
 ところが、南部でも北の発音を聞く機会が結構あります。これは北部の人が豊かな南部へと今も南進しているからです。ベトナム戦争終結後の75、76年には政策的に大量の北部人が南部に投入されましたが、今は経済的な魅力で流れ込んでいるようです。
 サイゴンだけに限れば人口約600万人(これも本当の数はわからないようです)のうち200万人以上が北部出身者との話です。54年までに共産主義を嫌って移住した人、75年に移住した人、立場は違えど同じように南の豊かさを求めてきています。サイゴン北部のビエンホアとかトゥドゥックあたりになるともっと多いようですが。
 タクシーの運転手に宿は決まっているかと聞かれ、紹介されそうになったのがハノイホテル。北部から来たのかと聞くとそうだと答えていました。
 ここに載せた写真は4/30の解放記念のパレードです。車に張りぼての戦車をかぶせて、上には若い女の人が手を振りながら市内を行進していきました。サイゴンの人は本当に解放と思っているのか?僕にはよく分かりません。しかし、解放後北部の人間が主要なポストを閉め、解放戦線の人間さえも政治的な中心からは遠ざけられていったのは確かなようです。結局北の人間は南の人間を信用しきれなかったのでしょうか?今に至るまで、微妙な隔たりがあるようです。


 

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